しろボンはあくびを隠すこともせず、眠気でまだ開かない目をこすって、廊下を歩いていた。
昨夜はつい話が盛り上がって、夜更かしをしてしまった。おかげで大寝坊だ。幸い、父は朝早くから出掛ける予定だったので、朝食に遅れることは気にしなくていい。ただ、あまりに起きるのが遅かったので、給仕さんが片付けてしまっていないかどうか、それだけが不安だ。
半開きの目に向こうから二・三人歩いてくる人影が映る。先頭をきって歩く人物に、しろボンは足を止めてしまった。
くろボンだ。
後ろに控えるセレスとパラスと、何やら言葉を交わしている。彼が歩くたびマントがはためく。毅然とした足取り、ぴんと伸びた背筋、よく通る声。その姿は隊長そのものだ。格好いい。悔しいくらいだ。しろボンはぽかんとそれを眺めていた。
くろボンが近づいてくる。なんと言葉をかけようか。思案している内に、くろボンは目の前を過ぎてしまった。慌てて、背中に「おはよう」と声を投げかける。セレスとパラスは会釈してくれたが、くろボンは聞こえてない風でそのまま数歩先へ行く。
もう一度「おはよう!」と声を掛けると、くろボンの足が止まった。こちらへ振り返る。急に見つめられて、しろボンが戸惑っていると、くろボンはきつい目つきのまま、棘を含ませて言った。
「寝坊ですか。……そんなに昨夜は楽しかったのですか?」
うっ、としろボンは言葉に詰まる。二の句を継げずにいると、くろボンは「行くぞ」とセレスパラスに声を掛け、そのまますたすたと行ってしまった。
……怒ってる。
後姿でもわかる。靴音が、力強く重い。
オレ、何か怒られるようなことしたかなあ?
しろボンは、くろボンが見えなくなるまで、しばらく廊下を見つめていた。
***
食卓にはまだ皿が並んでいた。埃が入らないように、上からナプキンが被せてある。今日はバターとハチミツのフレンチトーストらしい。
取っておいてくれたことに感謝して、両手を合わせてありがたく頂くと、口を拭ったところで給仕さんが現れた。
「今日は王子様、寝坊助なのねえ」
まるで小さい子の不始末をしょうがないわねえ、とでも言って聞かせるような言い方だったので、しろボンには少々気に障って口をすぼませたが、事実寝坊したしこうしてご飯も取っておいてもらったしで、何も言い返せることがない。
「大人になったんですぅ」
「あら、大人も子供も夜更かしは良くないのよ?」
むむむ。笑って返されて、ついムキになった自分が殊更子供のような気がする。
口惜しさを心の奥にしまいながら給仕さんをじっとり見ていると、後ろの物陰にもう一人誰か隠れているのが目に入った。しろボンが「あれ?」と声を上げると、給仕さんも思い出したように「ああ」と、物陰の誰かに「いらっしゃい」と手招きした。
現れたのは、見た目しろボンと同じくらいか、あるいはちょっと年下くらいの、小さな女の子だった。年齢的なものから考えるに、給仕見習い、といったところか。まだ糊のきいた純白のエプロンが、初々しさを醸し出している。
──可愛い。しろボンは、直感的にそう思った。
今度からこの子がオレ担当になるんだろうか? そうしたら毎日楽しいだろうなあ。いや、逆に気になりすぎてご飯が進まないかもしれないぞ──。
顔が火照ってくるのを感じながら、しろボンはじっとその子を見つめていた。給仕見習いの子は、しろボンの前に一歩進みでて、慣れない仕草でスカートの端をつまんで持ち上げる。ぎこちないところが、また可愛い。
「えっと、この子は……」
見とれているのを悟られないよう、しろボンは給仕さんに視線を移した。給仕さんは微笑み、見習いの子の背中をぽんと押す。
「この子は昨日から厨に入ることになったんだけど……」
ね? と問いかけると、見習いの子はおずおず頷く。そのままもじもじしているので、続きがあるのかな、と待っていると、「ほら、お出しな」と給仕さんは見習いの子にせっつく。意を決したように、見習いの子は、ポケットから何かを取り出した。
「これ……」
それは、ピンクと白のストライプの包装紙に、真っ赤なリボンで結ばれた、包み箱だった。
いきなりの展開に、しろボンはえっ! と声を上げる。
「これ、オレに?」
「そう」
自分を指さすしろボンに、給仕さんは頷く。
見習いの子の手は震えている。目を合わせないように顔を伏せているが、顔が赤くなっているのは何となく伺えた。
なんてこった! オレはこの子のことを知らないのに!
いや、恋は何がきっかけで始まるかわからない。付き合ってみて、初めてわかることもあるというものだ。
しろボンがあまりの事態におろおろしていると、給仕さんが助け舟を出すように、しかし衝撃的な言葉を放った。
「王子様から、くろボン隊長に渡してくれって」
「……へ」
しろボンの慌てふためくのが、ぴたりと止まる。
「この子、ずっとくろボン隊長のファンで、隊長会いたさにこうしてお城に上がったのよ、健気でしょう?」
同意を求められて、思わずしろボンも「え、……ああうん」と曖昧に頷く。
「けれど隊長さんって、あんな感じでしょう? これまで何人もの子が隊長に手紙やらお菓子やら送ったみたいなんだけど、みんな突っぱねているそうで。何か理由があるのかなって思うんだけど、浮ついた噂も聞かないし。私はね、この子までけんもほろろに追い返されるのは可哀想で」
「あー……」
まあ、確かに。
しろボン自身も見たことがある。市井の子が、くろボンに特攻して、粉砕される様を。「いらん」と一蹴される様は、傍から見ていても涙を禁じ得なかった。不思議なことに、その子は、「キャー! クール!」などと喜んでいたが。
あの子は気の強そうな子だったから平気だったのだろうが、多分この見習いの子は、そんな風にされたら、一週間熱を出して寝込んでしまうに違いない。それはあまりに忍びない。
「一応、頑張るけど……オレからでも、受け取らないかもしれないよ?」
片手に包みを預かりながら、しろボンは念を押す。
「いいんです! くろボン隊長に、私のような存在がいるってだけ、知ってもらえれば!」
見習いの子は、気弱そうな見目に反して、熱っぽく弁をふるった。勢いに押され、しろボンはもう片方の手も包みを掴み、完全に受け取ってしまう。
「お願いします!」
見習いの子に、上から手を握られ、しろボンも顔が真っ赤になる。
けれど頭の中では、思ったより冷静に事を考えていた。
……参ったなあ。
あのくろボンに、渡しに行かなきゃならないなんて。
***
しろボンは包みを持て余しながら、吹き抜けの渡り廊下を歩く。くろボンにこれを早く渡すためだ。とにかく早く済ませたい。
渡したら、なるべく早くその場を去ろう。頼まれたからには、やらなくてはならない。けれどこれをくろボンが受け取らないことはわかりきっている。押し付けて、後はくろボンがどうしようが、オレの責任の及ぶところじゃない。
あの見習いの子の熱心な様子を思い出して、ちくりと胸が痛む。しろボンは頭を振って、必死にかき消した。
この時間帯なら、親衛隊は稽古のはずだ。演習場の近辺にいるだろう。ぼちぼち歩いていると、やがて、遠くから号令が聞こえてきた。
遠目に兵士たちの整列した後姿が見える。そのさらに向こうにくろボン。くろボンが手を振り上げると、兵士たちは向き直って、それぞれ組み手を始める。
……はあ。やっぱりくろボンって、隊長なんだなあ。
何をいまさら、という気もするが、こうして兵士たちを統率している様を見ると、改めて感慨が深くなる。オレだって王子だけども。果たしてあんな立派に振る舞えているだろうか? 現に、今日はこうして包みを預かってしまった。お使いを頼まれるのは別に気にしないけれど、王子としての威厳とか、オーラが足りないからなのかな、とちょびっとばかり思う。
時々くろボンは兵士たちに直接教えていた。動きが鋭く機敏で、明らかに他の兵たちとは一線を画していた。くろボンが動くと、他の兵は見とれるようにじっとくろボンを向いている。あっちむいてホイ状態だ。
しろボンもしばらく見とれていたら、いつの間にか組み手は終わっていた。小休憩に入り、兵士たちはそれぞれ散らばってゆく。雑多な話し声が耳に入ってきたところで、しろボンははっと我に返った。今がチャンスだ。渡さなければ!
くろボンがセレスパラスと一言二言交わした後、輪から外れた。この時だとばかりにしろボンは駆け寄る。足音で気がついたようで、くろボンがこちらを振り向くと、しろボンに向かって、じっと睨みつけた。しろボンの駆け足は止まる。
うっ。蛇ロンに睨まれた蛙ロン。足が固まって動けない。まだ機嫌が悪いのか。
たじろいでいるしろボンを他所に、くろボンはつかつかとこちらに近づいてきた。数歩分の距離を残して、止まる。どうやら一定範囲内に入る気はないらしい。少し視線を落として、しろボンの手の中をじっと見てきた。ああそうだ、預かりものを渡さなければ。
「これ」
しろボンは包みを差しだす。くろボンは訝しみながら視線を上げた。
「王子のですか?」
「いや、新しく入った子の」
「お断りします」
きっぱりと切り捨てられてしまった。だがこれは想定内。ここでめげる訳にはいかない。
「そんなこと言わずに受け取ってよ。オレだって、預かったからには意地があるんだ」
「意地? ほう……」
何だか莫迦にするような含みを持たせて、くろボンは声を漏らす。
「それなら頼まれごとなんて受けなければ良かったのに」
「断れない雰囲気だったんだよ!」
「王子好みの人だった、とかですか」
ぐっ。図星だ。
しろボンが言葉に詰まったのでくろボンにも伝わったらしい、改めて聞かせるようにくろボンは言葉を継いだ。
「いいですか、隊長というものは色んな権利が絡んできます。そこに取り入って利権を得ようとする輩もいる訳です」
「くろボンはそんなことしないでしょ」
「当然です。ですが、利権を得ようとする輩、他に、その地位から蹴落としてやろうという輩もいます。例えば、安易に渡された包みを受け取ってしまうだけで、賄賂を受け取った、と邪推する者もいる訳です」
「ええー……」
これはそんなんじゃないのに。あの子の必死な様子を、実際に見たからわかる。
けれどくろボンの話もわかる気がした。変な誤解を生み出すのは、命取りになる。
だとしたら、これはどうしたらいいだろう。包みをじっと見つめていると、くろボンはぞんざいに言った。
「それなら、王子が頂けばいいでしょう」
「え? オレ?」
「王子好みの方だったんでしょう」
確かに、それはそうだけど。けれど、あの子が思いを込めたのは、オレではなくてくろボンな訳で……。
「オレが受け取ったら、それこそワイロにならない?」
「王子に権限はありません」
あっさり言われて、しろボンは少しむかっ腹が立った。ああそうですか! じゃあいいですよ!
「そんなに義理を立てたいのなら、執務室に置いておいてください。セレスが場所を知ってますから」
「わかりましたよーだ!」
しろボンは下瞼を思い切りひっぱってあかんべーをくろボンにくれた後、どすどすと怒気もそのままにその場を立ち去った。
***
「ねえ? ひどいと思わない?」
執務室の椅子に堂々と腰かけて、しろボンは愚痴をこぼした。セレスは笑って聞いている。
しろボンが執務室を訪れて、セレスの説明を聞いた時には、ぽかんと固まってしまった。なんでも、くろボン宛ての贈り物が、大きな段ボール十箱も溢れていたのだから。
まず爆発物など危険なものが無いかチェックする。聞き覚えのない団体からの贈り物は省く。誰からかわからないものは除外。 取引のあるところからでも、明らかに大きいもの、重いものは中身を改める。食べ物は賞味期限をチェック。多ければ兵士たちに配る。
そうやって、省きに省いた上で、この数。確かに、くろボンが密通を疑われないよう、神経をとがらせるのもわかる。けれども──。
「女の子がさ、ありったけの勇気を絞って作ったお菓子をだよ? 無下に断るなんて男の風上にもおけないや。いいよね、モテる男は辛くってね」
忌々しいくらいふかふかの座り心地のいい椅子。くろボンは普段ここに座って仕事をしているのだ。偉い気持ちになるのもわかる。
あんまり悔しいので、しろボンはその椅子に座って、兵士たちに配る予定のお菓子を勝手に頂いていた。地球堂のせんべい。乱暴に噛み砕くので、カスが飛び散るが、知ったこっちゃない。
次のせんべいを頂こうと、お茶うけ皿に手を伸ばすが、空を切るので、見たらすでに空っぽだった。十枚はあったはずなのに、全部消化してしまったらしい。けれどもしろボンの苛立ちは収まるところを知らない。ふと手元の包みに目がいき、好奇心に駆られる。
あの子が、くろボンを想って作ったもの。
ちらりとあの子の顔が浮かぶ。恋する乙女、とはああいうのを言うのだろうか。丸いほっぺが上気して、震えながらも差しだした包み。それを、くろボンに渡せずに、自分が頂くなんて、罪悪感がちらつく。
けれども──しろボンは、段ボール箱に目をやった。
「ねえ、例えばさ、贈り物のチェックで、ダメってなったやつはどうなるの?」
「そうですね、廃棄処分となりますね。もったいないと思わなくもないですが、持っていたってどうにもなりませんからね」
セレスは天井を見上げて、思い返すようにしながら答える。
廃棄処分……。
先ほどの説明では、正体不明の贈り物は省かれる、と聞いた。いくらしろボンが直接受け取ったとはいえ、又頼みの品物なんて、くろボンが信用するとは思えない。すると、これは捨てられてしまう訳だ……。
しろボンはじっと包みを見つめていたが、しばらくして、意を決してリボンを解いた。えーい! どうせ捨てられてしまうなら、オレがもらったって同じことだ。その方が環境にも優しい。
迷いをかき消すように包装紙を大雑把に取り除くと、中からはカップケーキが出てきた。透明なフィルムに包まれて四つ。表面は バターっぽい照りにチョコチップ。少々窪んでいたり焦げているところが、いかにも手作りで可愛らしい。
これを受け取らないなんて! ちくしょう! これだからモテる男は!
しろボンは乱暴にケーキをカップからはがし、そのまま口に頬張った。一つ、二つ。頬に溜め込んで、いきりたつままに噛み砕く。
セレスはしろボンが豹変したので呆気にとられている。窘めるべく手を伸ばしてかけて、後ろのドアの向こうからの足音に振り向いた。しろボンはその隙に、また一つ。最後の一つを手にしたところで、ドアがガタンと放たれた。
「王子、さっきの包み……!」
パラスが入ってきたのと、しろボンの視界に黒い幕が下りたのは、ほぼ同時だった。
***
気が遠くなる中、誰かが近寄ってきて、何やら話している。「医者を呼べ!」「安静に!」怒鳴り声、ひそひそ声。どんどん小さくなっていく。
「あの娘、料理が壊滅的だということで……砂糖を塩、バターに牛脂、重曹に石灰を入れてしまったということで……」
どこをどうしたらそんなに間違えるんだよ!
心の中でツッコみながら、しろボンは意識を手放した。
***
気がついたのは、自室のベッドの中だった。ゆっくり顔を巡らせると、医者と思しき白衣の男性と、くろボンが脇に座っている。
意識を取り戻したことを認めた医者が、「じゃあ、私はこれで」と席を立つ。くろボンは丁寧にお辞儀をして見送った。
バタンとドアが閉まる音がして、しろボンとくろボンは部屋に取り残される。沈黙。掛ける言葉が見当たらない。
ちらと掛け布団で顔を隠しながらくろボンを覗き見ると、朝廊下ですれ違った時より、一層眉間のしわを深くして、顔をしかめていた。ああ、怒ってる。怒気が陽炎のようだ。なんとか宥めなくては。
「……ごめん」
しろボンは神妙に謝った。
「ああ、まったくだ」
くろボンは苛立ちを隠そうともせず答える。「こちらの気も知らないで」
「だってくろボンが貰えって言ったんでしょ」
「ああ、それについては反省している」
くろボンは腕を組みなおした。
「こちらも少々気が立っていた。どこの誰とも知らん奴から受け取って、あまつさえそれを俺に渡す神経ががな」
ぐぐぐ。あまりの言い草に、何か返してやりたいが、うまい言葉が見つからない。
「早く仕事戻れば」
「今日は有休を取った」
「なんでだよ」
「お前を見張るためだ」
「オレはもう大丈夫だってば」
「大丈夫なのか」
「うん」
しろボンが頷いた時、くろボンの頑なな雰囲気が和らいだように見えた。組んだ腕を解き、こちらの顔を確かめるように覗き込んでくる。ばっちり目が合って、少々気恥ずかしくて、一旦布団にもぐるが、また顔を出すと、まだ覗き込んでいる。
あ、これは。しろボンは、何かが起こる気配を察した。
くろボンは無言で席を立った。しろボンも布団から出る。ベッドから降りようとしたところで、がっと肩を掴まれる。
「……何?」
しろボンの背筋に冷汗がたらり。嫌な予感がする。
そのまま反対の肩も掴まれ、しろボンはくろボンの為すがまま、再びベッドに寝かされた。そのまま肩を抑え込まれる。
「俺がどんな気でいるのかわかるのか」
わかりません。しろボンは激しく頭を振る。
「立場上、外ではお前に畏まらなくてはならん。それがどれだけ面倒か。お前と接する時、俺がどれだけ取り繕っても、お前は普段と変わらん調子でいるのが、どれだけ腹立たしいのか──。今朝なんて、昨夜にあれだけのことをしておいて、まるで何事もなかったかのようにしている」
くろボンは半身をベッドの上に乗せ、顔を近づけた。耳元に直接声が響く。
「ここなら邪魔が入らない」
しろボンはぞくりと肌が粟立った。
恐る恐るくろボンの顔を見た。視線が合わさる。深い紫黒の目が、鋭いながらもどこか変に淀んでいるように見えて、ああいよいよ、としろボンは観念した。この目からは逃れられない。しろボンの上に覆いかぶさって、日差しのように視線が差す。
くろボンが掠れる声で囁いた。頭がしびれる。
「さあ、昨日の続きを、しようか」
