「くそっ」
誰もいないことを確認した後、俺は廊下で一人悪態づいた。なんだか、無性に苛立っていた。
今は給仕に扮していたことを思い出し、また床を強く蹴りたくなるのを、なんとか思い留まった。少々このエプロン姿にも辟易してきた。
なかなかに給仕の仕事というのも激務だった。決して楽な仕事ではないと頭で認識していたものの、どこか甘く見ている部分があった。考えてみれば、城が抱える何百人もの食事を作ることが、決して楽であるはずがない。栄養を考え、献立を組み立て、食材を吟味し、費用をやりくりする。付随する仕事もかなりのものだ。特に、あの厨房の中というのは、戦場といっても過言ではなかった。
最後の最後で俺は野菜くずの処理を命じられた。城の裏庭の片隅に菜園があり、そこの肥料に使うそうだ。そういや話に聞いたことがある。
確か国王の肝いりだったと。……出くわさなければいいが。なんだかんだで、あの国王は観察眼が鋭い。
かといってこの野菜くずを放り投げる訳にもいかない。食べ物は粗末にしてはいけない。給仕の仕事を終えた後なら、なおさら実感が強い。
廊下を東方面に進むと、段々と閑散とした空間が広がってきた。この辺りは空き部屋が多い。その隅でぽつんと申し訳程度に取り付けられたドアを開けると、短い階段があり、菜園が広がっている。
踏み入れて俺は声を詰まらせた。なんだ、これは。『菜園』なんて可愛らしい響きではない。立派な農家の畑ではないか。
以前にも訪れたことがあったような気がするが、その時は確か、八畳間くらいのスペースに、いかにも道楽でやってます、と言わんばかりに、細々と苗が植えられていただけだった。それが今や、端から端まで徒競走出来そうな広い敷地に、畝なり芽なりがずらっと規則正しく並んで、まるで俺を出迎えてくれたかのような、壮観な眺めを成している。
苗の種類も、わかる範囲で、人参、大根、蕪、生姜。ピーマンはない。葱はだいぶ大きくなっている。あそこに植わっているのはジャガイモだろうか。もしかして俺は、ここのジャガイモを洗っていたんだろうか?
しばらく呆気に取られて立ちすくんでいたが、ぼけっとしている訳にはいかない。頭を振って、現実に立ち返らせる。
しかし足を踏み出したところで、すぐ止まってしまった。
この野菜くずはどうしたらいいだろうか。何か肥料に変える機械があるのだろうか。それとも土の中に埋めるのだろうか。だとして勝手に埋めていいものだろうか。
これだけの畑なら、何人かで面倒を見ているはずだ。声を掛けるのは少々冒険だが致し方ない。誰かいないかと顔を伸ばすと、不意に背後から声がした。
「探し物かな?」
なっ、とだけ零して後は飲み込んでしまった。まったく気配を感じなかった。振り向くと、麦わら帽子に手拭いを巻き付けた、ゴールデンボン王その人がいた。汗をぬぐい、水筒からお茶を出して飲み干している。
気がつかなかったのは俺が鈍ったからなのか? それともこの人がすごいからだろうか。驚く俺を他所に、脇を通り抜け、目の前の苗に愛おしそうに土を掛ける。
「ここにお前さんの探しているものはありゃせんよ」
「あ、いえ、これを持ってきました」
そう言って俺は野菜くずのざるを差しだす。
「ああ、それなら、そこに入れておいてくれ」
ゴールデンボン王が指し示したのは、入口の壁沿い脇にある、大きなポリバケツだった。
バケツのふたを開けると、同じように、先客の生ゴミがしこたま詰められていた。開けた瞬間、各々主張しすぎて不協和音になってしまったような臭いが、むわっと立ち上った。俺は思わず顔をしかめる。
これをここに放り込めば終いだ。
焦った。いきなり背後から話しかけてくるものだから。しかもここで知り合いに出くわすのだから。ゴールデンボン王が俺を見据えなかったのが幸いだった。顔をちらりと一瞥されようものなら、すぐにばれてしまうだろう。
「お前さんは、最近ここに来たのかな」
「え、ええ」
話しかけてくるので、失礼とは思いつつも、顔は向けないまま返事をする。
ざるの中身を全部空けてしまい、ふたを閉めた。
「城の中は変わっておっただろう」
「ええ、本当に……」
適当な相槌で、その場を去ろうとした時だった。
俺は止まった。
しくじったことに気がついた。
ゴールデンボン王がこちらを見ている。
『城の中は変わっておっただろう』、何故最近来たはずの人間が、そんなことに気がつくのだ?
いや、違う。しくじったのはそこではない。
この言葉を解釈するなら、『以前と』城が変わっていた、あるいは、『普通と』城が変わっていた、二通りある。
王はわかっていてこの言葉を投げかけたのだ。
俺は何気なく返事をした。
そして前者の解釈をし、しくじったと思った。
しかし後者の解釈であれば、なんらおかしいことはなかったのだ。
俺の失敗は、止まってしまったことだ。
間違ったと思って、それを相手に知らせてしまったことなのだ。
何秒もかけて、俺は振り向く。王は相変わらずこちらをじっと見据えている。
ばれている。もう初めからばれていたのだ!
冷汗が伝う。何と言えばいい? 元親衛隊長ともあろう者が、扮装して城に入り込むなど、どう弁解しても理解を得られるものではない。弁解のしようがないのだ。これは俺個人の目的であって、国の為でもなんでもないからだ。
汗が背中をするっと流れ落ちた時、ふっとゴールデンボン王は微笑んだ。
「どうもな、時が経てば風化してしまう。それは避けられん。継ぎ接ぎしたり、建て替えたり、何とかやりくりしていくしかないのだ」
俺に語りかけながら、王は再び土いじりを始めた。
その言葉は、一給仕でなく、元親衛隊長にでもなく、俺本人に語りかけているように思えた。
「覚えておきなさい。過去はいつまでも変わらないし、未来はどうとでも変わる。それをどう捉えるかはお前さん次第なのだと」
俺はゆっくり、反芻するように頷いた。
それを見て、王は満足そうにふぉっふぉっと笑った。
「うちもそろそろ建て替えどきじゃの」とか言いながら。
俺は大きくお辞儀をして、お暇しようかとしたところ、またもや声を掛けられた。
「あーこれこれ。そこの棚にあるの、ついでだから持って行ってくれんか」
指し示した先を見ると、こっちとは反対側に大層な道具棚があった。鋤、鍬、バケツ、シャベル、熊手、鎌となかなか物騒だ。いつの時代も農民は強かったというが、手入れされたフォークの切っ先のきらめくのを見ると、それも頷ける。きちんと管理されているんだろうか。夜中には絶対来たくない。
そんな物騒な諸々が並ぶ棚の上に、いかにもどうでもいい風に、A4サイズほどの茶封筒が置かれていた。脇にはタオル、水筒、風呂敷包み。多分、この中では封筒のことだろう。
俺が封筒を手に取ると、「ついでにそれも持って行ってくれ」と風呂敷包みも指さした。桔梗色の上等そうな風呂敷だ。残念なことに、こんな場所に置かれているものだから、土で汚れてくすんでいる。持ち上げると、思ったより重かった。中に何か詰まっているのだろう。
「ここを広げる提案書じゃ。それを隊長殿に届けておくれ。なあに、直接会う必要はない。決裁箱にぽんと放り投げればよろしい。それ、そのまんじゅうを手土産にな」
どうやらこの中身はまんじゅうらしい。俺は風呂敷を伺い見た。
何から何までこの国王はお見通しのようだ。俺が何をしたいのかも、何をしようとしているのかも見透かしている。
じっと国王に顔を向けると、また高く笑いだした。いささかしわが目立ち始め、反対にひげは細った気がするが、叡智を湛えた目は少しも変わっていない。まだまだ隠居はしないだろう。
俺は再び深くお辞儀をした。「今度はゆっくりおいで」と声を掛けられながら。
だが多分、『今度』はないのだ。
