どうせ涙をぬぐってやることもできないのだから、私はせめて、君を燃やす火になりたかった。(Another End) - 6/16

 引きずられてやってきた厨房では、すでに戦線は展開し、にわかに乱戦の様相を呈していた。お城の厨房だけあって、一人暮らしの平屋ならそのまま収まるんじゃないかという広さだったが、そこに人がぎゅうぎゅう詰めになっている。巨大な冷蔵庫だかオーブンレンジやら、立派なのだろう設備は人の隙間にわずかに見えるばかり。鍋の湯気か人の熱気かむっと空気が立ち込めて、油で炒める音、水で流す音、材料を切る音、更には「こっち終わりました!」「セッティングは?」「バター出して!」などの怒号が飛び交う始末だ。戦争の真っただ中、俺だけが取り残されている。
 これは前線と言っても差し支えない、とぼんやり思っていると、半ば押し付けられるように、ジャガイモがてんこ盛りになったかごを渡された。
「洗って! 芽を取って! 皮むいて!」
 俺が返事をする間もなく、それを俺に渡した給仕は別の仕事にかかっていた。仕方なく俺は水場に向かい、じゃばじゃばと洗い流す。とれたてなのだろう、土がこびりついてなかなか落ちない。「それじゃ陽が暮れたって終わらないよ」と隣の誰かに冗談交じりに言われ、俺はかっとなってたわしを手に取った。普通のジャガイモならたわしでも問題あるまい。
 職を退いてから自分の食事を作る機会は格段に増えた。だが所詮は男料理。素早く美しく正確になんて出来る訳がない!
 そもそも俺は何故ジャガイモを洗うことになったんだ?
 今ここで準備しているのは、王族、そして臣下たちの食事。このジャガイモもあいつの腹に収まる訳だ。
 何が哀しくてあいつの食卓を整えなくてはならないんだ!
 しかし完全に専門外とはいえ、文句を言われるのは腹立たしい。俺は一応給仕として今ここに存在しているのだ。言い訳なんて出来やしない。
 たわしで火を起こしそうなくらいこすった後、苛立ちのままに包丁を刺し滑らす。最初はいびつだったものの、数をこなしている内に、綺麗につるんと皮を向けるようになった。そのむけたジャガイモのすがすがしさたるや、品評会に出したいくらいだ。
 ようやく全部むき終ったので、これでここを抜け出せるかと思いきや、次にはきゅうりの輪切りが出題された。切ってやろうではないか!
 おそらく熱気のせいだと思う。人参を切った後は卵白を泡立て、洗い物を次々と片付け、おおよそ本来の目的からかけ離れたことをしばらくこなしていた。
 疲労感ではっと我に返った時には、まかないの準備が始まっていた。
 気がつくと、俺の隣には、俺をここに連れ出した給仕が立っていた。彼女こそここのリーダー格なのだろう。仕事があらかた片付き、満足そうにため息をつく。
「お疲れさま。よく頑張った!」
 そう言って俺の肩にポンと手を置いた。俺は一瞬体を強張らせた。まったくの不意だったからだ。
 一応俺でもなけなしの筋肉は残っているし、そこいらの一般人より体つきはしっかりしているつもりだ。見た目にはわからなくても、触られて何か気づかれることを心配したのだ。
 だが、それは杞憂だったらしい。彼女はそのまま話を進めた。
「王子さまが育ち盛りだからねえ。いっぱい食べてもらわなくちゃ。私らとしても手が抜けないよ」
 そうだ、しろボン!
 俺ははっとした。
 俺は情けないことに本来の目的を忘れかけていた。俺がこんな姿に身をやつし、あまつさえ食事の手伝いまでするという、大難を甘んじて受けたのも、その為だったというのに。俺はやつの食事を作りにはるばる訪ねてきた訳ではない。
「王子は……」
「え?」
 俺は口を開きかけてつぐんだ。給仕は不思議そうに俺を見ている。
 あいつは抜け出したと聞いた。食事を作っても戻ってくるだろうか?
 今日の献立を思い出す。春キャベツのペペロンチーノ。ポテトサラダ。筍の味噌漬け。人参のスープ。後は知らない。デザートはみかんと豆腐の和え物のようだった。
 あいつは俺がつぶしたジャガイモをおいしそうに頬張るのだろうか。
 生憎下っ端給仕(ということになっている)俺では、王家の食事に同席できる訳もない。確かめようがない。
「王子は、ピーマンがお嫌いと聞きましたが」
 結局俺の口から出たのは、そんな言葉だった。
 何を言っているのだろう、俺は。
「ああそれねえ」
 よく知ってるわねえ、と彼女は感心したように呟く。軽率だったか、と思ったが、さして気にもしていないようだ。「昔ね」
「……昔?」
「そう。お嫌いだったのよね、ピーマン」
 だった、とは。
 そんな話は聞いてない。
 俺は恐る恐る尋ねた。聞かずにはいられなかった。
「今は……違うのですか?」
「今はきちんと食べてるわよ」
 俺は驚いた。
 匂いを嗅いだだけでも顔をしかめ、口に入れればすぐに吐き出すくらいだったのに、あいつが、ピーマンを、咀嚼して、飲み込む図がどうしても浮かばなかったのだ。
 俺が目を丸くしたのにも気がつかない様子で、彼女は続けた。
「大きくなると好みが変わるっていうしねえ。どういう心境の変化があったんだか知らないけど、こっちとしても作り甲斐があって腕が鳴るよ」
 本当にそういうものだろうか?
 わずかな時の間にそれだけ変わってしまったのだろうか?
 俺はどうしても飲み込めずに、「はあ……」とだけ曖昧に頷いた。「元気がない!」と再び背中を叩かれた。