どうせ涙をぬぐってやることもできないのだから、私はせめて、君を燃やす火になりたかった。(Another End) - 3/16

 しかし、はたと現実に立ち戻って考えてみると、ここにしろボンがいないとなれば、どこにいるのだろうか?
 城の庭? 常に警備の兵がパトロールしているのに、落ち着かない場所に留まっているだろうか?
 そもそも城内にはいないのではないか?
 ぐるりと周囲を見回してみる。遠くに兵士たちの掛け声が聞こえる。時折小鳥の羽ばたく音。まるで俺だけが、世界から切り取られて存在しているかのようだ。
 鳥の羽ばたくのを目で追って、つと視線が天を仰いだ。
 ──城の、屋上。
 可能性は十分にある。あそこは緊急時以外立ち入り禁止だ。そんなルールをお行儀よく守るようなやつではなく、幾度となく勝手に入り込んでいたではないか。
 けれども屋上は、ここから仰ぎ見ると、限りなくお天道様に近いように思えた。見つめるだけで目が眩む。あのような場所にたどり着けるだろうか。
 一瞬外壁をよじ登ることを考えたが、すぐにそれは非現実的だと頭を振った。城の壁はつるんつるんだ。ところどころ朽ちた箇所はあるものの、とても手を掛けられそうにない。窓枠にならぶら下がっていけるか? いいや、握力が弱っているのは先程実感した。あんなてっぺんまではとても行けない。
 すると城の中から攻めるしかない──どうやって? 許可もないのに城の中をうろつくのは大問題だ。
 俺はしばらく口元に手を当て考え込んだ。
 まず城の内部へ入り込まねばなるまい。それには兵士の格好が一番都合がいい。兵士を適当に一人締め上げるか? いや、それではあまりに可哀想だ。交代のタイミングを狙って……。
 考えながら、俺は兵士たちの詰所の方へ歩いてゆく。もちろん、そこかしこに配備されたカメラに気をつけながら。
 俺の記憶とカメラの位置はまるで変っていた。総数はあまり変わってないと見る。設置場所、可動範囲、人通り、それらを総合的に考えればこの上ない布陣に思えた。カメラの視線を避けるのに、壁を這って、あるいは潜り込んで、潜入捜査官ばりの動きを求められた。もっと前だったら簡単に避けられたのだろうが、今の落ちた能力のせいで勝負が拮抗しているのだとしたら悪くない。勝負はえてして、ギリギリの方が興奮するものだ。いつぞやのように。
 とはいえ、衰えてきてはいる身だ、幾度となくカメラを避けていると、さすがに疲れてきた。兵士の詰所に行くには中庭を抜けなくてはならない。あそこに背の高い建造物はなく、渡り廊下を挟んで、四季折々の草花が彩るばかりだ。小休憩には良いところだろうが、生憎俺にそんな猶予はない。もちろんカメラもあるだろう。なのに、身を隠す場所がほとんどない訳だ。運よく知り合いに出会って、城内を闊歩できる可能性は期待しない方がいい。
 それに、出来れば、知り合いには会いたくなかった。
 俺は呼吸が乱れてくるのを感じながらも、同じようにカメラに注意しつつ進んでいった。城の隅角部までたどり着いたところで、一陣びゅっと風が吹き、思わず足を止めた。小川のせせらぎと、陽気な鼻歌が聞こえる。ここは洗濯場だ。
 勝手口から中年の女性が目いっぱい詰め込まれた洗濯かごを持ってやってきた。
 城背部には森があり、更にその後ろには山々がそびえている。その山の溜め込んだ雨水が、流れ流れてここに来る訳だ。女性の侍従たちは毎日ここで、テーブルクロスからシーツから、あらゆるものを洗い清める。
 今日なんかは絶好の洗濯日和だ。太陽は穏やかに笑顔を振りまいている。時折吹く風は優秀なアシスタントだ。竿にいくつもの洗濯物が吊るされて、めいめい日向ぼっこをしている。
 俺は二択を迫られた。このまま突っ切るか、勝手口から入るか。白い洗濯物に溢れたこの場所で真っ黒の俺が通り抜けるのは、テーブルにグレイビーボートのカレーを全部ぶちまけるくらいに目立つ。熱心な女侍従たちは、時折おしゃべりに興じながらも、その手を休めることは決してない。
 洗濯場であるからか、ただっぴろい緑地が大きく手の平を広げていて、太陽の恵みを遮るものは何もない。木も建物も、一時的に身を隠せそうなものは何もないのだ。その広さといったら、さっきの小屋の場所が野球場一つ分だとして、その二つか三つ分あるだろう。
 ちょうどこの角っこからの城の形は窪んでいて、例えるなら『コ』の字の三画目一番最初に筆をおく場所に俺、二画目窪んだ位置の真ん中に勝手口、突き抜けるなら一画目の場所まで行かなければならない。人の出入りの分だけカメラは少ないと見るが、どこに向かうとしても、誰かしらの目に留まるのは必須だろう。
 俺は城の陰に隠れながら、洗濯物がはためく竿を注意深く品定めした。
 あるいは洗濯物を上手く利用できないか……?
 シーツにくるまる。いや、俺の背丈では裾が余るし、動きづらいし視界も悪い。こんな天気の良い真昼間では、お化けと見間違えてくる訳もない。あるいはいつぞやあいつがやったように、なんとかシートのように身を隠すか? いや、色が浮きすぎている。
 洗濯物のほとんどは、太陽の光を強く照り返す白であった。はためいて揺れる度に、その鋭い白が忌々しくなってくる。何故上等な布はことごとく白なんだ! あいつも白い。くそ! ふざけるな!
 きっとあいつはここで干されたシーツに顔をこすりつけて、嬉しそうに眠るのだろう。
 冷静に考えれば今の俺の状況は、『城に不法侵入して物陰から洗濯物を狙う変態』以外の何物でもなかった。だが俺はそんな考えなど微塵も頭に浮かばなかった。変に気分が高揚していた。もし俺が昔の自分であったなら、仮にも一国の元隊長が、などと自制心が押しとどめてくれたに違いない。
 そのままじっと何も出来ず睨めていると、また風が吹いた。実際それほど強くはないが、俺の顔に強く当たって、思わず目を瞑った。ちょうど斜め右前方から吹くので、手前の壁に突き当たって分散し、勢いを増すのだ。洗濯物のシーツは「どうするの?」「ねえどうするの?」と、足止めを余儀なくされている俺を笑うかのように揺れる。それがまたあいつの声で再生されるものだから、不愉快この上ない。
 俺がしかめた目をゆっくりと開くと、一拍遅れて、ぱさりと音がした。白い布きれだ。一つ、風に乗って飛んできたのだ。俺はゆっくりと屈み、それをつまみあげる。エプロンだ。少しばかり短い草が刺さっている。
 そのまま四方から眺めてみた。給仕のものだろう。洗い立てのようで、気持ち土が擦れている以外は、まっさら綺麗に思えた。王族の伝統か趣味か、体裁は至ってシンプルで、ポケット二つがついている他は、装飾も何もない。
 俺はしばらく押し黙った。これを風が運んできたというのは、何か巡り合わせのようなものを感じたからだ。
 これを、つけろと。
 女装なんて死んでもやらないと思っていた。いや、これは女装ではない、変装だ! 近頃街は新しものかぶれになってきていて、仮装の類はそれ程珍しくはなくなってきていたが、それに俺が乗っかることはないと思っていた。
 しかしそうでもしなければこの局面を打破できそうにない。今までのカメラに、俺が無事通り抜けてきたと思っていても、まったく映っていない自信はなかったし、目の前の侍従たちが洗濯を終える頃には、とっぷり日が暮れている。それまでここで待っているというのか。
 俺は気持ちを静める為に手を合わせ、一息にエプロンを巻いた。頭には着けてきたマントを裏返しにしてくくりつける。外目にはちょうど赤ずきんのような格好になっているはずだ。これで顔は一目でわからない。
 他に手だてが浮かばないからといっても、なかなかにこれは勇気のいる行動だった。鼓動が早まっている。顔がのぼせていくのがわかる。
 よし、と気を入れなおして、勝手口に向かうか突っ切るかを考えながら足を踏み出そうとしたところ、不意に城の陰から人が飛び出してきた。