どうせ涙をぬぐってやることもできないのだから、私はせめて、君を燃やす火になりたかった。(Another End) - 2/16

 城の敷地の西端は、城壁と城との間に植込みがざっと連なっていて、その隙間を埋めていた。小さい子供が体をぴったりくっつけても、通り抜けられる隙間ではない。
 俺は植込みの先端を見上げながら、よっとその枝に手を掛け、ぐるりと体を持ち上げ、城壁の縁に乗り移った。
 このくらいなら造作もないと思っていたのに、若干動きが鈍っていたのには、多少なりともショックだった。一応毎日鍛錬はしているのだが、やはり前線を退くと、知らず知らず弱っていくらしい。
 ともあれなんとか移ることは出来た。この辺は警備の死角だ。城壁のてっぺんは茨のように鉄の棘が張り巡らされているし、内部は植込みで塞がっている。まず侵入は出来ない。俺のような不心得者がいない限り。
 頭を棘にぶつけないよう注意しながら、勝手知ったる他人の家のごとく、軽い足取りで進んでいった。縁は狭く、片足が乗るくらいの幅しかない。見ようによっては、綱渡りの曲芸師だ。だが、こんなところを歩ける機会などある訳がないので、慎重かつ大胆に、とんとんと進んでいった。
 思えば油断していた。突如視界に赤い閃光がよぎり、反射的に身をかがめる。
 なんだ、あれは。
 冷汗がにじむのを感じた。
 なんだ、と問わなくてもその正体はわかっていた。監視カメラだ。俺のいた頃は、ここに配備されていた記憶はない。だとすると、新たに設置されたのだ。
 そう、俺がいなくなってしばらく経つというのに、城の様相も変わっていて当然だというのに、何故平気だと思ったのか。
 赤い閃光が通り過ぎるのを待ってから、俺は這ってその場を通り抜けた。
 監視カメラの可動域を過ぎたところで身を起こし、振り返る。
 マントを身に着けてきたのは失敗だった。長年の癖というか、城へあがる時は纏うことが自然になっていた。もしかしたら裾がカメラに映ったかもしれない。俺は一旦マントをはがした。ほっかむりにしようと思ったが、もともと体の色は目立たないのだし、何より見た目まで泥ボンみたいになってしまうのは気がひけた。
 それからもいくつかの監視カメラに出会った。まず人の入り込まない場所だけあって、その動きは単純であったので、簡単にやり過ごすことができた。ここにカメラを配置する発想は素晴らしいが、少々詰めが甘い。新しい隊長の今後の成長に期待する。
 窓もいくつか通り過ぎた。今日は心地いい風が吹いている。大体の窓は開けられていた。出入りするそよ風に乗って、練乳色のカーテンがはためき、給仕や臣従の話し声も聞こえた。今夜の夕食の献立について話し合われている。
 ビーフカレー? 先日もお召し上がりにならなかったかしら。なにしろ、王子サマがお好きだからねえ。材料は足りるかしら? デザートは? イチゴのタルト。カレーに合う? ならヨーグルトはどう?
 議論は侃々諤々としていた。良かったな、今夜はカレーだぞ。
 第一、そんな真面目に話し合わなくても、あいつには適当に与えておけばいいのだ。
 ……それは一国の王子に対してあまりにぞんざいか?
 けれどそういうやつだ。人が貰ったまんじゅうにさえよだれを垂らし、余り物のイチゴさえ目を輝かせる。ひょっとすると庶民より卑しく、ありがたがる。何をやっても喜ぶのだ。ピーマン以外は。
 ……俺はあいつをなんだと思ってるんだろう?
 身をかがませながらしばらく進んで、ようやく開けた場所が見えてきた。終点だ。城壁から芝生の上にひょいと飛び降りる。少し足がしびれた。
 辺りを見回す。一面の芝生、まだ先の続く城壁、そびえ立つ城、植込み、俺。随分と開けっ広げた場所だ。野球場くらいはあるのではないか。人は誰もいないらしい。マウンドに俺一人、行き交うのは風のみ。
 注意深く辺りを観察しながら、俺は植込みの方へ歩を進める。
 植込みには小屋があったはずだ。いつぞや、俺の体調が悪い時に、ここでそうめんを食べた記憶がある。そう、ちょうどこんな天気の日に。
 日差しはにわかに強くなり始めていた。こんな日は、木陰でのんびりと昼寝できたら、どんなに気持ちいいだろう。こんな重労働なんて、時間の無駄に決まっている。
 小屋は植込みに隠れていた。よく目を凝らさないとわからない。よく目を凝らさないと……。
 ……ない。
 植込みに手を突っ込んでみたが、がさがさと音をたてるばかりで、建物の輪郭などは探しとれなかった。もしや取り壊されたのか?
 俺は数歩後ろに下がって、改めてその植込みを眺めてみた。
 色が違う。
 小屋があったはずの場所に、植わっている樫の色が。
 つまりこれは後から植えられたという訳だ。
 小屋に巻き付いていたはずの蔦は見受けられなかった。おそらく十中八九、小屋は取り除かれたとみていい。
 俺は更に数歩後ずさって、植込みを仰いだ。木々の向こうからわずかに覗くばかりだった城壁が、更に高くなっている気がした。おそらくこの工事の為に、植込みごと取り払ったのだろう。あるいは、王子の隠れ蓑を取っ払う目的だったのかもしれない。
 取り壊しの指示をしたのは誰か。この程度のものなら王の承認までいらないだろうが、ここをしょっちゅう隠れ蓑にしていた王子が、知らない訳はあるまい。あいつは何も言わなかったのだろうか。
 かといってここを残しておくメリットは何もない。これは妥当な判断だ。反対などしようがないだろう。する方がおかしい。
 けれども、俺にとっては、思い出の場所、というと大げさだが、それでも記憶に残るものであったのだ。
 樫の茂る植込みの中に、かつてあった小屋を幻視した。
 それは風に流されて、砂のように舞い散った。