その後はどうしたかわからないが、彼と別れて、俺は再び階段を上っていた。気がついた時には、屋上の扉の前に立っていた。
きっとよく、ここにあいつがいたからかもしれない。
屋上の扉は、鎖でがんじがらめにされ、錠前がいくつも付いていた。封鎖されている。俺のいた頃は、鍵穴一つで施錠されているだけで、こんな厳重ではなかったのに。ここも過去になっているのか。
ドアノブに手を掛けた。扉が少し浮く。鎖を手でいじると、不思議なことにするっと緩んだ。錠前はダミーだったのか。
俺はわずかな隙間に体をねじりこませて、屋上に忍び込んだ。ざあっと俺を押しのけるように強い風が吹く。顔を背け、やり過ごすと、──あの時とは違った光景が広がっていた。
屋上は相変わらずがらんどうだ。俺は一歩一歩足を進める。違って見えるのは、いる筈の人物がいないからだろうか。
端っこまで来て、下を覗く。相変わらず柵はない。さっきの風が後ろから来たら、落ちてしまいそうなギリギリの場所。前は、階下に俺がいて、ここからあいつが覗いていた。もちろん、今は下に誰もいない。
俺は数歩下がって、腰を下ろした。ヘルメットを脱ぎ、そのまま虚空を見つめる。バイザーを隔てない、己の目に映る景色は、眩しすぎるくらい鮮やかだった。
広場にいる人の多いこと。城門を出て、まっすぐ伸びる城下町は、大通りがより広くなっている。屋根はより一層彩り豊かになって、戸数も増えたように見える。屋根の丸い家、瓦屋根の家、煙突の見える家は、新しく出来たパン屋か何かだろうか。道路は路地裏に至るまで綺麗に舗装されている。遠くに行くにつれ、コンクリートの割合は少なくなり、段々と地肌が見え、その周りを緑が囲んでいる。畑の枚数も増えただろうか。あの辺りは俺の家があった辺りだ。
時の経過とは、あらゆるものを塗り替えてしまう。ここにはもう、俺の知っているものは何一つとしてないのだ。
しばらくそのまま座り込んでいた。時折、慰めるように風が掠めていくのが、目に染みた。
広場で過ごす人々の朗らかな談笑が、耳の遠くに届いているだけだったのに、ふと、別の音が混じり始めた。ガチャガチャと、鉄のかち合う音。この陽気にはいささか似つかわしくない。何事かと思って、縁に手を掛け、うんと体を伸ばして下を覗いた。兵士たちが駆けまわっている。「侵入者だ!」
俺は一瞬体が跳ねたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
そうか、やっとばれたのか。
王子一人いなくなってもこんなに騒ぎはしなかったのに。
良からぬことをしたのは事実だ。どちらにしろ相応に裁かれるつもりでいた。元親衛隊長が城に忍び込むなどと、一大スキャンダルだ。前の俺だったら屈辱に耐えきれなかっただろう。
だが、目的が果たせなかった今、もうどうだっていい。
広場がにわかに色めき立つ。「危ないので非難してください」と、兵士が居合わせた人々を誘導する。緊急時の対応もなかなか迅速なものだ。ただ少し、気がつくのが遅すぎるが。
俺は腰をあげた。追手がここにたどり着くのも時間の問題だ。その時が来るのを、目を瞑って待った。
──くろボン。
俺を呼ぶ声が聞こえる。
目を見開いた。右に振り向き、左に振り向き、その声の方向を探った。聞き間違いようがなかった。それこそが、俺の探していた声だったからだ。
胸が高鳴る。周りに誰もいない。どこからだ、どこからしたんだ、今のは……!
──くろボン!
もう一度聞こえた。俺ははっとして、駆けていった。右手の、遥か下から、けれど確かに、声がする。
縁に捕まりながら、身を乗り出した。生い茂る植込みの中に、ぽつんと白い姿が見える。
「くろボン!」
「しろボン!」
本物だ。幻影でもなんでもない。こっちに諸手を振っている。
背後で、ガツガツと音がした。兵士たちだろう。「誰かいるぞ!」と、あの鎖で縛られたドアをこじ開けようとしている。
さっきまでは捕まってもいいと思っていた。けれど今は違う。捕まりたくない。あと少し、あと少し、この城の高さだけの距離なのに……!
俺がまた視線を落とすと、しろボンは手を振るのを止めて、その広げた格好のまま静止した。眉を上げ、俺を貫くように見つめる。
「飛べ!」
馬鹿か、この高さ……! 叫んでやろうと口を開いたが、声にならなかった。頭でそう思っても、もう心は決まっていたのだ。体はするすると持ち上がり、勝手に手は縁から離れる。身が浮き、床を蹴る。
俺は宙に跳んだ。
