どうせ涙をぬぐってやることもできないのだから、私はせめて、君を燃やす火になりたかった。(Another End) - 10/16

 ヘルメットを手に入れた俺は、さっそくエプロンとおさらばした。なんだかんだで長い間共にした相棒である。名残惜しく、は全然ならない。兵士の体をして、何食わぬ顔で「落ちてましたよ」とエプロンを洗濯かごに入れた。もうしばらく、家でもエプロンは身に着けたくない。
 これで城内はほぼ自由に動き回れる。屋上目指して俺は階段を上った。カンカンと鳴る靴音の響きがえらく懐かしい。大体人が集まるのは下三階で、ここまでくると人気はほとんど無くなっていた。まるで世界から取り残されたみたいだ。窓から差す暖かな日差しが、もの寂しさを一層強めている気がした。
 城の東側は王族の私室が勢ぞろいしている。最上階の隅っこが国王の自室、その少し離れた隣が王子の部屋だ。都合上、俺の部屋もその下の階にあった。
 王子がいなくなったことについて、その後続報らしきものは入っていない。ということは、朝抜け出してそのままなのだろうか。
 ただ、朝の門番の慌てふためき方と、先程の詰所での兵士たちの落ち着きぶりを比べると、昼にあいつはご飯を食べに戻った可能性は高い。何せピーマンすら食べるようになったくらいだ。がめついあいつがすっぽかす筈がない。
 何より、あいつは、父との食事を何よりも楽しみにしている。国王は為政にかかりきりだったし、王子はそんな父を邪魔することはない。彼らが外へ出かける機会に恵まれたとしても、護衛や、国民や、常に人の目が付きまとい、王と王子としての振る舞いを求められた。親子とはいえ、この広い家で暮らす他人のようなものだ。
 食事とは、数少ない家族が共に過ごす時間だったのだ。
 もし昼に戻ったとしたら、それ以降何も情報が出回ってないところをみると、今はおとなしくしているのだろう。
 となると、屋上より、自室の方が可能性が高いのではないか? そう思いついて、俺の足は止まった。
 階段脇から延々伸びる廊下を見やる。空気が凍り付いたように静かだ。時が止まったかのように。見張りの兵すらいない。
 いるのだろうか。
 俺はそのまま廊下の方へ歩いた。慣れた道だ。歳が近い、たったそれだけの偶然で、俺は何から何まで、あいつの面倒をみなくてはならなかった。だから、ここを歩く時は、いつも苛々していた気がする。
 今こうして歩いているのが不思議な気持ちだ。まるで氷の張った湖の上を歩いているような心地がする。静謐な響きを持った足音がする。割れてしまうのではないかと心の底で怯えている。ここは、こんなに静かだったか? あいつのいる場所には似つかわしくない。
 考えながら、部屋の真ん前にまでやってきた。再び振り向いたが、誰もいない。王子の自室だぞ? 番をする兵士がいて当然ではないのか。
 俺はドアをじっと見つめた。中に人の気配は感じられない。
 まるで、捨てられてしまったかのような……。
 意を決して、数回、ドアを叩いた。手を下ろして、しばらく待つ。返答はない。もう一度ノックをした。同じようにして待ったが、やはり返答がない。
 俺は無意識にドアノブに手を掛けた。留守かもしれない部屋に、勝手に入り込むのは礼儀としてどうなのか、その時は微塵も思わなかった。よく王子が寝坊して、叩き起こしにきた昔があったからではない。俺にはあいつに伝えねばならないことがあったからだ。
 ノブを回した。手が震える。このドアを開くと、恐れていた結末が飛び込んでくるのではないかと震えた。
 ドアを開くと──何もなかった。
 そう、『何もなかった』。ベッドも机もない。本棚もない。申し訳程度にあった観葉植物もない。時計もない。散らかしていた紙くずの類も、何もかもない。クローゼットは板の間切りが取り払われて、空洞になっている。あるのは埃だけ。
 窓から陽光が差し込み、ふわふわと舞う埃が反射してきらめく。それが唯一、この空間で時の流れを感じさせた。落ちる影が、錆のように朽ちた色に見えた。
 俺は息をのんだ。動けなかった。見間違いをしたのかと思って、一度瞬きをした。けれど変わらない。部屋を間違えたのか。
 あいつはどこにもいやしない。
 呆然と突っ立っていると、遠くから別の足音が、徐々に大きくなって耳に入ってきた。反射的に振り向く。王子の足音ではない。兵士のそれだ。
 見ると、「おーい」と手を振りながら兵士が駆け寄ってくる。知り合いか? 正体を見極めようと、俺は目をすぼめた。俺も兵士の格好をしている今、俺を誰と認識して手を振っているのか。あるいは国王の差し金だろうか?
 少なくとも、俺を侵入者と知って捕らえに来たのではないようだ。口調も足取りも至ってのんびりだ。あまり関わり合いになりたくはなかったが、ここで逃げてはかえって怪しまれる。俺は身の警戒を解き、彼がやってくるのを待った。