「大丈夫ですか?」
兵士の問いかけに、くろボンははっと我に返った。
いつの間にか地上にいる。目の先には白い城壁がそびえている。考えながら階段を上っていたら、いつの間にか外に出ていたらしい。さっきまで確かに地下牢の階段を上っていたはずなのに。
外の光は眩しかった。午後二時、三時くらいの時刻だろうか。太陽は西寄りに陣取り、穏やかに照らしている。そよそよと風が吹き込み、マントがはためく。真新しい空気を感じて、くろボンはまだぼんやりとしたまま小さく息を吸った。
この頃お忙しそうでしたから、と兵士は遠慮がちに呟いた。いや、大丈夫だ、何でもない。くろボンは軽く頭を振った。否定するためではない。頭をすっきりさせるためだ。
どうにも、さっきいた場所みたいに、頭の中が淀んでいる。それは、大体、しろボンとのやりとりのせい、いやしろボンのせいだ。
頭に手を当てると、先ほどまでが思い起こされる。
***
静粛なる石畳の壁に、靴音が澄んで響き渡る。それはさながら、裁きの神が、槌を打つ音にも思えた。神だなんて、そこまで驕るつもりか──くろボンははっと、身を正して、小さく頭を振る。
湿った匂い。苔とも黴とも見分けのつかない斑点。ところどころ欠けた、雨水の染み渡った石壁。砂埃。淀んだ空気。蝋燭がぼんやりと光景を浮かび上がらせる。城の敷地の隅も隅、くろボンがいかに隊長であっても、滅多に足を踏み入れることのない場所。地牢。平和を謳うこの王国には、本来無用のものだった。日常から引き離されたその佇まいは、見たこともない幽世を思い浮かばせた。
呼吸も苦しく思えるのは錯覚だろうか。それともやはり、現実だろうか。
先ほどまでけたたましく鳴っていた音はすでに止んだ。金属が擦れ、振られ、牢屋中に反響する。耳を煩わせた音が止んだ──気がついた時、くろボンはある牢の前まで来ていた。牢の中の目と視線が合った。彼も、くろボンの足音に気がついたからこそ、その鉄格子を揺するのを止めたのだろう。
──しろボン。かつて、この王国の、王子だった人物。
いや、世間ではまだ彼は王子である。ただくろボンの中では、とうの昔に王子である認識を手放していた。
しろボンの、底知れぬほど澄んだ目と合わさった時、くろボンは急に苛立ちが湧き上がってくるのを感じて、吐き捨てずにはいられなかった。
「勘違いするな。お前を助けに来たわけじゃない」
その言葉に、しろボンの真っ直ぐな瞳は、波紋のように揺らめいた。だが光は失われてはいない。外光届かぬ地下にあって、その瞳自体が恒星のようだと、くろボンは苛立ちの中で、かすかに思った。
くろボンが鉄格子の前まで歩みを進め、格子を隔てて、しろボンの前に立った。二つの姿が重なる。
見ると、小さな子供の手首くらいはある格子の鉄棒に、手の跡がしっかと付いていた。汗と、垢。べとべとになっている。必死だな、とくろボンは心の中でほくそ笑んだ。いくら気丈に振る舞っていようと、目前に迫る死の恐怖には抗えないと見える。
「明け方、刑を執り行う。王子としてな。民衆には知らせん。だから観客もいない。死ぬ前に望みを叶えてやる、なんてことはありはしない」
くろボンは決然と言い放った。しろボンが眉をしかめる。
「……王子として?」
それは先ほど、父である国王と絶縁したやりとりを思い出して、訝しんでいるのだろうか。それとも、王子として処刑なんてしたら、帝国の立場が悪くなるんじゃないかと、この期に及んで気にかけているのだろうか。
確かに今、帝国が急進的に変貌していようとも、しろボン王子の人気は、庶民の間で未だ確固たるものがある。明るく、気さくで、分け隔てない人柄──くろボンは、しろボンのそんなところが気に食わなかった。威厳も何もない、軟弱者にしか思えなかった。
しかし、嫌悪を抱いてやまないそのしろボンの性分が、今回ばかりは都合が良かった。
くろボンはしたりと薄く口の端を吊り上げながら、言って聞かせるように、しろボンの耳元で囁いた。
「王子である筈のお前の死体を転がして、『心優しい王子が、心無いブルーソアラーの連中によって手にかけられた』と演説するのさ。陛下はお前を廃嫡にすると息巻いていたが、仮にも実の息子を意にそぐわないからといって、あっさり処刑するようでは、民衆の動揺も広がるだろう。こっぴどくやられたお前が、何も知らない民衆の前に差し出されたらどうなる? もう、大陽系の火は止まらない──」
しろボンは冷たい隙間風に体をさすられたように、ぞくっと身震いをした。
知らずくろボンは饒舌になっていた。興奮しているのかもしれない。いかに惨たらしい処刑になるのか、次々に口から零れ出た。いささか悦にも入っていた。
しろボンは体を縮こまらせて小刻みに震えていた。くろボンの言葉に、間を割ってくることもなく、ただじっと、寒さに耐えるようにじっとしていた。
くろボンにはその様子が愉快で仕方なかった。好い気味だ、様を見ろ、喋りながらそんなことを思った。だが、ふと、何かチクチクと、針のように突き刺す気配を感じた。それそのものは痛くもなんともない。ただうっとおしい、邪魔で、不快だ。話す速度を緩めながらその正体を探った時、それはしろボンから発せられているものだと気がついた。しろボンの、視線から。
黒く透きとおった水晶のような瞳の奥に、憤りに燃える熱さと、軽蔑を含んだ冷やかさが、はっきりと、形になって見て取れた。それがくろボンを刺していたのだ。
くろボンは、息を飲んで、即座に二の句を頭の中で探した。その間に、説明が終わるのを待っていたしろボンは、ぽつりと呟いた。
「……父上は?」
「は」くろボンははじめ聞き取れなかった。
「父上はどうなるかと聞いているんだ」
しろボンは力強くくろボンを睨みつけた。まだ寒気がひかないのか、指の先は小さく震えていた。注意深く見れば気づけただろうに、今のくろボンには、そんな余裕がなかった。その言葉の強さに、視線の強さに、事実たじろいでいたのだ。
「オレが死んだら、誰も父上を止める人はいなくなる。そしたら王国はどうなるんだ、誰が父上を助けるんだ」
何を言っているんだ、こいつは。くろボンにはおかしいとしか思えなかった。
死ぬのが怖くないのか、月並みな質問が口をついた。言ってしまった後で、くろボンはこの質問がいかに下らないか、気がついて悔やんだ。けれども先ほど、処刑よってもたらされるものを言って聞かせた時、あれだけ震えあがっていたというのに、今はそんなことはどうでもいいのだという口振りの差異が、どうしても同一人物のように見えなかったのだ。
問いにしろボンは深く頷く。だったら人の心配なんて──くろボンが言いかけた、しろボンは繋げる。
「そりゃあ、痛いの嫌だし怖いけど、それなのに、父上があんなままなんて、もっと嫌だよ、死んでも嫌だ」
心配で、死んでも死にきれない。不安を濃く映した瞳はそれでもしっかりと、くろボンを捉えた。掠れた声で、鉄格子に縋って、頭を振る。
くろボンは無性に腹が立った。怯えているくせに! 死にゆく身で残された者の身を案じるなんて、一端の聖人を気取ったつもりか!
しろボンのこういうところが好かなかった。噛みしめて押し殺そうとしても、ふつふつと湧き上がってくる。
「お前が死んだところで、変わりはしない」
だから言ってやった。
「戦争に拍車がかかって、まもなく大陽系を制圧する。むしろ、立派な名君として崇められるだろうさ」
「あんなの立派じゃない!」
「……あんなの?」
しろボンの叫ぶ声が、残響となって耳に残る。しばらく牢内に響き、振動が止んだところで、くろボンは言葉を漏らした。
「さっきまで、あんなに父上父上って案じていたじゃないか」
「だから、あんなの父上じゃない」
しろボンは毅然と言い放つ。
「ずっと一緒にいたらわかるはずだ。父上は優しかった。日照りで麦が足りないってなれば、お城の倉庫の麦袋を自分で担ぎ出して配ってたし、川が溢れればすぐすっ飛んで行って、村の人と一緒になって、ロープ引っ張って、橋を直して、炊き出しのおにぎりだって握ってた。くろボンだって知ってるだろ? そんな父上が、いきなり戦争なんて、どう考えたっておかしいじゃないか」
「だけどそれは数年前のことだ。お前は一年間土星に行っていた」
「そんなヒトってすぐに変わるのか」
くろボンは一瞬詰まる。しろボンからの見えない圧力に押されていた。その目は灯火を宿していて、小さいけれど、力がある。
気取られぬようくろボンは流暢に答えた。
「突然の心変わりだってある」
言ってくろボンは詭弁だと気づいていた。到底しろボンが納得するはずもない。
何故俺はこんなに焦っているのか、こんな奴に──うまい言葉を探そうと、頭の中は凄まじい速度でぐるぐる回りだす。その中で、確かに、たじろぐ自分もくろボンは感じていた。
「だったらなおさらだ」
しろボンは格子に手を掛けた。喚き倒すためではなかった。顔が間近に据えられる。鉄の棒で隔たれていなかったら、ともすれば触れてしまうかもしれない、息のかかる距離までの接近を、くろボンは許してしまった。足が張り付いて、逃れられなかった。
しろボンは強い眼差しを向けて、言う。
「オレは土星に行ってて居なかったけど、くろボンは近くにいたはずだ。ずっといて気がつかなかった? 突然の心変わりを何とも思わなかった? いつもいて、急に言うことが変わったって思わなかったの? それをおかしいと思わなかったの? 病気かなんかだって心配もしないの? 突然の心変わりはあることだからって、はいそうですか、って言われるままじゃないか!」
しろボンは矢を番える暇も与えないほど、憤りのまま噴石を散らした。怒っている。こんなしろボンを見るのは初めてだった。時折拗ねたり地団太を踏んだりするけれど、強い怒りを見せることはなかった。しろボンの周りから怒気が迸って、陽炎のようにゆらめく。床を溶かしてしまうのではないかと幻視するほどだった。
勢いに押され、くろボンは言葉も出ず黙りこくる。感情の吐露が収まったしろボンは荒く息をついた。二人の呼吸だけが場を支配する静寂。しんと牢内に満ち満ちた時、ようやくくろボンはしろボンの言ったことが頭の中で咀嚼され、理解し、同時に胸の奥の奥が、燃えてゆくような熱さを感じた。熱は腹の底へ移り、鍋で煮え、業火の熱を持って全身に広がっていく。それが頭のてっぺんまで戻ってきた時、仮初めの面は音を立てて落ちた。こんな奴に……こんな奴に!!
ガシャン、とくろボンは激昂のまま鉄格子を握った。しろボンの顔が触れそうなほどに近い。いきなり様子が変わったので、しろボンはびくっと一瞬、体が跳ねた。
「何も知らないくせに……」
低く、獣が呻くような声だった。くろボンの口から発せられる。「お前は人を殺すのか」
「え?」
しろボンは質問の意味がわからず、聞き返す。冷汗が流れていた。
「お前が前線に出る訳でもないのに、戦争をしようがしまいが、お前は安全なところにいられるんだ。人が死のうが知ったことじゃないだろう?」
「それは……」
違うとしろボンが口の形を作ったが、すぐにかき消された。
「守備隊がいかなる訓練をしようとも、平和なんてお題目を唱えている内は、何ら意味もない。戦争が無ければ人は死なないとでも思ってるか? ボンバーファイターのマシントラブルで上空三百メートルから墜落して死んだ兵士をお前は知っているか? 名前は? お前とお前が継ぐ筈だった国の人間を守るという『名目』で死んだんだぞ? 誰もいない畑に落ちたから幸い民間人の被害は出なかった。それをお前は幸いと言えるか?」
しろボンは言葉が紡げない。
「遺体はどうなっているのか想像できるか? ヒトの原型なんて留めてはいない、黒焦げで、そこらへんに散らばる瓦礫と見分けがつかないんだぞ? 落ちる兵士の気持ちは? 三百メートルなんてあっという間だ。痛みなんて感じる暇もない。何十年生きてきて、死ぬ一瞬に何も思う暇がない。
守備隊は何のためにあるんだ? そうやって悪戯に事故で死ぬためか? 国民に持て囃されるためか。
正直国の奴らにも飽き飽きしているのさ。守られると信じて疑わない。さっきの事故だって、おお怖いと噂するだけ。ちょっとばかりの知り合いが哀しむだけさ。莫迦莫迦しい! そんなのに命を張るだけの意義があるのか!
軍隊なら軍隊らしく、戦争で死ぬ。それが当然だ!
平和に呆けて日和る奴らのお守りはご免だ──」
一息にそれだけ言って、くろボンは口を閉じた。いや、しろボンが何か言おうものなら、その口はまた開かれて、容赦なく目の前の敵を噛み砕いてしまうだろう。それくらい殺気に満ち満ちていた。
しろボンは怯えていた。それはくろボンの様子になのか、言ったことに対してなのか、わからない。眉間を少し寄せて、困惑した顔を向けていた。
ただ、震えてはいなかった。怖がってはいるのだろう。だけど恐怖に固まっているという訳でもなさそうだった。どちらかというと、憐れむようであった。ああ、くろボン隊長は、なんて道理がわからないんだろう──それこそ、徳の高い聖人が、愚行を繰り返す人間を見つめるように。道を踏み外した哀れな民衆を、いかにして救うか、思い悩んでいるようにも見えた。
腹が立つ。どうしようもない。もう一度鉄格子をふん掴んで叫んでやろうか。息をすうっと吐きだして、一旦顔を伏せた時だった。
「どうして?」と。
ぽつりと漏れた。
くろボンは顔を上げる。
「死ぬのって怖いよ。オレも今からそうなっちゃうんじゃないかって思うと、なんだかよくわからないけど、寒くなってガタガタしちゃって、頭の中でどうしようかって回ってる。だから兵士の人だって、こんな怖かったのかって思う」
何が『どうして』なのかと、くろボンはきつい視線でしろボンに問う。
しろボンはそれを逸らすことなく続けた。
「そんな怖いのに、戦争で死にたいって、何だよ」
しろボンの口調は、はっきりとして重かった。
「なんでやらなくてもいい戦いをするんだよ。王国は星同士でみんな仲良かっただろ! それをぶち壊して何がしたいんだよ! 地球だけじゃ生きていけない癖に! 木星の木が無けりゃ小屋だって立てられないし、水星の果物が食べられないなんて信じられない。戦争って家とか森とか畑とか燃やしたりするんだろ! なんでだよ! みんな必要なものだろ! それを自分から壊すって莫迦じゃないの!
その理由が、『事故で死にたくないから』って莫迦だろ!」
しろボンは声の限りまき散らした。
「戦争だろうが死刑だろうがなんだろうが怖いし嫌だよ! 『事故で死ぬよりマシだから』って理由で戦争起こされちゃたまらないよ! それで関係ない人とかビーダロンとか巻き込まれて……」
しろボンは息が継げなくなって、言いかけてむせた。辺りには怒号がまだ木霊している。
くろボンは驚いた。軟弱者だと心の中で罵っていた王子の、確固たる信念があることに。威厳のある声。姿、立ち居振る舞い。それは牢の中にあって、まさしく王子のそれだったから、そんなものを見たのは、まるで初めてであったから。
しろボンは一度大きく息をついて、仕切りをさげるように、静謐な声を通らせる。
「……さっき、守備隊は何のためにあるのかって言ったけど」
ああ、とくろボンの頷く声は思った以上に弱かった。しろボンの声に飲まれたのだ。
「守るためにあるんじゃないの」
それはしんとした地牢に水が満ちるように広がり、吸い込まれていった。
くろボンは黙った。そんなんじゃない。そんなことはわかっている。そんなありきたりの答えを期待していたんじゃない。
「どっか遠い他の星から宇宙人がやってきて、国をめちゃくちゃにしちゃうとか、無いとは言えないけど、例えば太陽が爆発しちゃうとか、そういう自然から、守るのだって、同じことだろう? 立派な仕事なんじゃないのか」
くろボンはゆるゆると頭を振る。しろボンはしっかりと通る声で、しかしどこかか細く、寂しげに続けた。
「国のみんながのんきに暮らしてるのに、って、それが守備隊が頑張ってるからって、なんでわからないかなあ! そりゃあお礼なんて言われないかもしれないよ。だけど自分で選んだんだろ! 自分で守備隊になりたいって選んだんだろ。だったらお礼言われるためになったのかよ。その方が莫迦莫迦しいよ。
だったらオレはなんなんだよ。王子なんて選べないだぞ、仕事なんて。何十億の人間の顔と名前なんて覚えられっこない。
生まれた時から勝手に王子で、勝手によく知らない人たちの為に頑張るのって、それってよっぽどオレが莫迦って言うことなのかよ!」
最後の方は涙声だった。目から零れ落ちないように、必死に頬を持ち上げている。時々引きつるように鼻をすする。
しろボンの表情と相対して、自分はどんな顔をしているんだろう。困惑か。失望か。
ふっと、鉄格子を掴む手から力が抜けた。手が鉄棒から離れる。身もしろボンと距離を置く。
こいつの身の上は同情の余地がある。だけど、だからなんだというのだ?
確かにこいつに選択肢はなかったのかもしれない。ただ俺にはあった。だから自分のいいように、やりたいように選んできただけだ。
こいつは所詮、凡人だ。聖人なんかではない。自分だって辛いんだから、お前も文句を言うな──ただの愚痴、罵りあいでないか。自分の身の不幸を他人に強いてもなんら意味のないことだろう? そしてそれは、俺とて同じなのだ。
こいつに光明を見出すなんて、期待するだけ無駄だったのか。
わかりあえない、と思った。
しろボンとは、ずっと同じ平行線を辿るのみで、交わることはないと。
言いたいことだけまくし立てて疲れ切った、あるいは絶望に似た気持ちも抱いていた。あれだけ猛っていた気持ちが、急に冷えていくのを感じた。くろボンの中で、湖に氷が張っていく、時が止まったかのような静かな気持ちを感じた。
「……お前がどれだけ喚こうが、明日処刑されるのは変わらない」
ぴんと張りつめた声で、くろボンは告げた。
「お前が過去どうであって、どんなに先を心配しようと意味のないことだ。お前が死ぬのは変わりない。何も出来ん」
しろボンは格子を掴んだ。既にくろボンは踵を返し始めていた。がしゃんと音がして振り返く。「また喚き散らすのか?」しろボンがまだ希望の色を失わないので、くろボンは努めて柔らかく、ただし厳粛に伝えた。
「ならば、布をかませなければならんな。暴れるなら鎖で留める。処刑を早めたっていい。俺に一任されている。無駄なことに時間を使うな」
それだけ告げて、くろボンは牢を後にした。
階段を上る。下から悲鳴ともつかない叫び声が爆ぜた。空気を震わせ、静寂を裂くように。騒いだら布をかませるとは言ったが、生への猶予が残されていない今、このくらいなら許してもいいだろう。
許す? 人の生き死にを考え一つでどうにか出来る身分なのか。違うだろう、望んでいたことは。
だからなのか、足取りが重いのは。いや、あんな奴死んだところで──王子でも何でもない──だとしたら尚更、俺は守るべきでないのか──問いが頭の中で尻尾を追い回すように巡って、埒が明かない。
くろボンがしろボンの命を掌握していたのは確かだ。だが彼は乞い願うことはしなかった。本気でくろボンを説得できると思っていた、そう見えた。もしかしたらそれがしろボンにとっての希望だったのかもしれない。莫迦な奴だ。莫迦な奴だが──その望みを絶ってしまったことに対して、後ろめたさを感じている?
くろボンは、瞼が落ちるのを感じた。重くなった目を開くことなく、深く息を吐いた。
***
空が白み始めた明け方。空気はまだ薄寒い。森の向こうで、太陽が地平線から顔を出すのを待ちわびている時刻。洋灯のようにほのかに明るい。くろボンは天を仰ぎ、次に辺りを見回した。既に処刑の準備は整った。
辺りはしんと静かだ。この時刻、鳥くらいはさえずっていてもおかしくない、また風で梢がさざめいてもおかしくない。なのに、誰一人として音をたてやしない。まるでこの舞台を見届けるかのように。
兵士たちが半円状に囲む中、しろボンが引き出された。目隠しをされ、布をかまされ、後ろ手に錠がはめられている。足には錘。おおよそ王子の姿ではなかった。囚人だ。だが、くろボンは、彼が王子だと知ってしまっている。くろボンは、ちょうど処刑場となるまん真ん中の、真正面でそれを見た。そう、しろボンの処刑が一番よく見える場所。
しろボンはのったりとした歩みだった。しゃり、しゃり、と朝露に濡れる草を踏む音が、弱弱しく聞こえる。静寂の中にある唯一の音だった。
けれどくろボンは気づいてしまった。しろボンの姿勢が、真っ直ぐと伸びていることに。
気づいた瞬間、息が止まった気がした。
しろボンが怯えているのは確かだ。足取りがおぼつかない。けれど目隠しに錘をつけられていれば誰だってそうなる。姿勢がぴんと伸びていること、それはまさしく王子としての、気位の高い振る舞いだった。それに恐怖した。俺は間違いを犯しているのではないか、漠然とした不安と恐怖。
しろボンは立ち止まらされた。付き添っていた兵士たちは離れる。彼らが安全なところまで退いた後、ジャッと一斉に銃を構える音がした。くろボンは右を見た。いつの間にか、腕が上がっている。それが合図となって、左右弧を描いて広がる兵士たちが、しろボンに狙いをつけたのだ。
……何をしている? 俺は。
しろボンがはっきりと見えた。彼は身じろぎすらしない。ただ口だけ、必死に動かしている。何か伝えようとしているのだ。けれど、秘密裏に行われる処刑に、彼が発言など許される訳もない。
鋭く、焼けこげる匂いがした。
目に一閃二閃の残像、遅れて爆ぜる音。無数の弾が、全てしろボンに吸い込まれていく。くろボンはぎこちなく右腕を見た。降ろされている。いつの間に。喉の奥が焼けてひりひりする。叫んだのだ。合図を出したのだ。
本来なら、処刑に使う銃にはいくつか空砲を混ぜる手筈だ。だが空砲など用意されていなかったのではないか。全部が全部、無数の光線がしろボンを貫いて、彼は毬のように弾け飛んだ。
土煙があがる。靄の中から形をみせた『それ』はぴくりとも動かない。死んでいる。わかっている。だが理解が追い付かない。
──おや、撃っていないじゃないか。
声がして、恐ろしくゆっくりと、後ろを振り仰いだ。ちょうど太陽が強烈な光を伴って這い上がってきた。逆光になって、顔はよく見えない。だが、それはダークボン皇帝だとはっきりとわかった。
言われて、自分の手元を見た。いつの間にかレーザーガンが握られている。
鼓動が逸る。
──こうやって。
皇帝は空で銃を構えてみせる。くろボンもそれに倣った。
鼓動の音が限界まで耳を鳴らす。
──こう撃つのだ。
皇帝は引き金を引いた。くろボンも引いた。
それは動かないしろボンに深々と刺さって、霧散した。
遅れて射撃音が耳に入って、くろボンははっとした。しろボンは吹き飛ぶ。その瞬間、彼の目隠しは外れ、くろボンと目が合った。
その表情は──。
***
「大丈夫ですか?」
兵士の問いかけに、くろボンははっと我に返った。この問いかけには覚えがある。またもや、考え事をして気が逸れていたらしい。
場所は変わらず地上のままだ。目の先には白い城壁がそびえているのも変わらない。外の光はまだ眩しいが、いささか日は傾いて見える。暮れるにはまだ早いが、徐々に橙の翳りを帯びている。
どうやら、しろボンが処刑されるのを幻視したらしい。きっとこの兵士の言うように、疲れているのだ。処刑は明日、まだ執り行われていない。
明日、あんなことが起きるというのか。
幻影がまだ目に焼き付いていた。普段のしろボンの屈託のない顔。だらしのない緩み切った顔。それが先の牢内では引き締まって見え、恐怖に青ざめ、そしてさっきの処刑の夢の中では──。
「くそっ!」
怒りのまま吐き捨てた。兵士は驚いている。けれどそれを取り繕うのも煩わしい。
沈黙が過ぎた。風がマントを揺らす。しばらくして、どたどたと慌ただしい音がした。沈黙を裂いたのは、叫び声だった。
「しろボンが逃げたぞ!」
くろボンは弾かれるように振り向いた。地下牢への通路は一本道だ。くろボンが出向いてから帰る今まで、誰ともすれ違っていない。後ろにある入口からは、誰も出入りした気配も無い。ならば誰が……!
くろボンは顔を伏せた。ぐっと足を踏み鳴らして、力のまま草をにじる。爪先から、焦がす気持ちが立ち上ってくる。
「……人を集めろ。門の周りを固める。港は直ちに封鎖。荷は改める。身分証明を提出させる。誰か手引きした可能性がある。あるいは秘密の抜け道があるのやもしれん。家探しは後でいい。まずは人の出入りだ。地球に居場所はない。あるとしたら、外の惑星だ」
そのままぽつぽつと、指示を与えた。思いの外冷静だった。やらなければいけないことが、次々に出てくる。
兵士は敬礼した。「早く行け!」けしかけると、慌てて向こうに走ってゆく。その姿が向こうに消えたのを見て、くろボンは、辺り憚らず雑草を蹴り散らした。壁があったら力任せに殴っていた。
大きく息をつく。自分も行かなければならない。しろボンを捕えるために。
──しろボンが逃げた、と聞いた時、安堵した自分が居たのだ。
くろボンは、痛いほど拳を握りしめて、ゆっくりと歩き出した。
