抱かれ方を忘れられたら(没)

 いつの間にかそのまま眠っていたらしい。
 遠くから鳥のさえずりが耳に入ってくる。徐々に瞼の裏に陽光が拡がっていき、うっすら目を開けると、馴染みであるはずの天井が、見慣れない表情でこちらを見下ろしている。くるりと頭を横に向ければ、枕がいつもと違うことに気がついて、よく見れば掛け布団もベッドも違う。生活感を必要最低限に留めた佇まい。ああ、ここくろボンの部屋だったんだっけ、と改めて認識する。
 彼は一週間ほど演習に行っている。今日は九日目になる。なのにまだ、この部屋の主は帰ってきていないのだ。
 一週間くらい、とは、演習に行く前、彼から直接聞いた。

 しろボンは慣れた手つきで形式ばかりのノックをすると、返事がある前に勝手に部屋に踏み入った。
 己の領域に勝手に立ち入られるのを好まないだろうくろボンも、もはや慣れてしまったのか、一応苦い顔をして咎めるものの、追い返したりはしてこない。
「お邪魔しまーす」
「その自覚があるなら止めて頂きたい」
 くろボンの嫌味などどこ吹く風で聞き流し、しろボンは当たり前のようにベッドに腰を下ろす。
「おい」
「あ、いいから。そのままそのまま」
「それはこっちがいう台詞だ」
 くろボンは身支度をしていた。タオルや着替え(何を着替えるのだろう?)のようなものが、鞄から半分顔を出している。
「明日から出掛けるんだっけ? いつまで?」
「一週間ほどです」
「大変だね」
 とは言ったものの、この時は別段、しろボンも関心を引かなかった。

 『くらい』、とは一体どのくらいを差すのだろうか。
 今回は大陽系の端の方まで行くそうだから、かなり期間がかかるのはわかる。
 二日くらい、なら十分その範囲だろうか。
 くろボンが演習で何日もいなくなるのは珍しくはない。さらにしろボンの中では、『演習』とは『旅行』のようにしか感じていなかった。
 その考えを改めるに至ったのは、三日前の話になる。

「そろそろくろボンも帰ってくる頃だね」
 父と会食の最中、ふとそんな話題が出た。
 ハンバーグを運んだフォークを皿に置き、長いテーブルの先の父に話を掛けると、そうだのう、と相槌を打ちながら、しかししろボンにとっては意外な言葉が聞かされた。
「何事も無ければ、今日くらいかな」
「何事も無ければって」
 しろボンはけらけらと笑った。そんなことあるわけないでしょう? くろボンに限って。
 ましてや、ビーダ王国はこんなに平和なのに。
 けれど父は笑い飛ばすことなく、重みのある声で窘めたのが、しろボンからにこやかさを吸収した。
「言うがな、しろボンや。決して簡単なことではないのだぞ。彼らはこの国、この土地に住まう我らを守る為に、命を懸けている。命を懸ける、ということは、自分の命も、決して無駄にしてはいけないのだ。極端な話、不注意で階段から滑って落ちた、そんなことで命を失う訳にはいかないのだ。だから彼らは親衛隊の紋章を掲げる限り、一時一秒とも気を抜くことは出来ない。いつか誰かを守る為には、今死ぬことは出来ない。その為に訓練を続けている。だから我々は敬意を払うのだ。忘れてはならんぞ──」
 しろボンは息を飲み込んだ。
 誰かを守って死ぬ為に生きる。理解が追いつくのはそこまでだった。
 父の言葉がぱんぱんに膨れ上がって、しろボンはそれ以上、ハンバーグに手を付ける気になれなかった。
 きっとこうしている間も、くろボンは命を懸けているのだから。

 ビーダ王国の人口を親衛隊の人数で割ったら、親衛隊の人たちは、一人当たりどれだけの責任を背負ってるんだろう。もっとも数で計っていいものでもないけれど。
 だからといって全国民を知っている訳でもなく、そんな顔も知らない誰かの為に戦っているのだ。
 果たしてオレなら、顔を知っていたら出来ることなのか、そんな考えがぐるぐる回る。上手くまとまりがつかないのは、決して寝起きだからだけではない。
 たまりかねて、すっと枕に顔を埋めると、懐かしい匂いがした。

 ところで、とくろボンが切り出したのも、しろボンが枕に顔を埋めた時だった。
「なんで私の部屋に寝に来るんです」
 部屋の主たるくろボンそっちのけで、ベッドに寝転がるしろボンに、くろボンはきつい視線を送る。
「いいじゃん、しばらく使わないんだから」
「そういう問題ではありません」
「飽きたの、いつものところで寝るの」そう言ってしろボンはくるりと寝返った。「一人で寝るのって、何だか寂しくない?」
 しろボンのベッドは、川の字になって寝られるほど広いし、天気が良ければ毎日干されているのでふかふかだ。
 けれどその整えられた丁寧さが、時々寂しさを感じる。
 贅沢だ、と一蹴されそうなので言わないけれど。
 だからこうしてくろボンのせんべい布団が恋しくなるのだ。干す機会がなかなかないので、いっつも薄っぺらくなっている。
 言ったら、「一体今いくつになってそれを言うんです」だの「夜はぬいぐるみとでも寝てるんですか」だの返されるかと思ったが、予想外にくろボンは何も返してこなかった。けれど、背中にバシバシ矢のような視線が刺さる気配がするので、納得しているかどうかはわからない。
 それでも追い出す素振りも見せず、それ以上何か言うこともなく、ベッドを乗っ取ることを許してくれた。
 何も言わず、朝目が覚めたら、くろボンが部屋にいなかった。

「ひっどいよね」
 その時を思い出して、しろボンは独り言ちた。
 枕からする、くろボンの匂いは日に日に薄くなっている。布団もこのままぺしゃんこになってしまいそうだ。
 掛け布団を手繰り寄せて、そのまま抱き寄せた。
 澄んでいて、一瞬の鋭さを感じさせる匂いが、今は大分柔らかくなった。本人もこうなってくれたらいいのになあと淡く思う。

 昼間の部屋ほど寂しいものはない。
 灯りをつけるのはもったいないけど、灯りをつけないと、薄暗い部屋に外から明るい声が無遠慮に飛び込んできて、まるで自分が世界から取り残されたように感じる。
 無事に帰ってくるのだろうか。
 このまま匂いと共に掻き消えてしまいそうだ。
 突然、ガチャリと世界を開く音がした。

「あ」「あ」
 しろボンがドアに目をやったのと、くろボンがドアを開いたのが同時だったので、必然と視線が重なる。
「……おかえり」「……ただいま?」
 無人であるはずの自室にしろボンがいることが、余程驚きだったのだろう、皮肉の一つ出る前に、くろボンが戸惑いながらも素直に挨拶を返すのがらしくなかった。

 彼が肩を小さく竦めた気がした。ああ、これ絶対嫌味言われるぞ──しろボンはそう期待したのだが、くろボンは意に反してベッドの傍に寄ると、起き上がったしろボンの横を通り越して、布団に体を沈めた。
「え、ちょっと」
 思わずしろボンは抗議の言葉が出た。しかし、よくよく考えればここは彼の部屋だ。文句を言われるのは本来自分であるはずである。けれどくろボンは何も言わなかった。何も言わずに、しろボンが腰を浮かしたすきに掛け布団をかっさらって、そのままくるまってしまった。
 少しはみ出た顔を覗く。くろボンは目を瞑っていた。
 久しぶりに見る顔は、相も変わらず整っていて、憎らしくなるほどだ。時折瞼とまつ毛が揺れる。こんな時でも眉間には皺が寄っている。心なしか顔色は青白く見えたが、それが却って、顔立ちを一層綺麗にみせるのだから不思議だ。
 普段顔を合わせていても、まじまじと見つめる機会なんてそうそうないので、しろボンはこれとばかりに存分に拝むことにした。何せ九日ぶりのことなのだから。

 何があったのかと聞きたかったけど、まあいいや、それは明日で。
 彼の寝顔を拝むという奇跡の方が、よっぽど貴重で有り難い。
 まもなくして、掛け布団が規則正しく膨らんだり縮んだりし始めた。くろボンの呼吸に合わせてなのはわかっているけど、なんだかその様子が可笑しく見える。
 どうやら本格的に寝てしまったらしい。王子であるしろボンをほっぽらかして。くろボンをこんな無防備に疲れさせるくらいのことだ、演習に軽い嫉妬すら覚えて小さく笑う。
 これはしばらく起きないだろう。
 このまま隣に横たわってやろうか、それとも、この前とは逆に、くろボンを世界に取り残してやろうか、それがいい、と思ってしろボンは物音をたてないように、そっと部屋を出た。
 きっと明日の枕はくろボンの匂いがする。

没理由:
没にしなくてよかったかもこれ