「ゆうやけこやけでひがくれてー……」
くろボンがそう歌いだした時、身の丈七割ほどの主は眼下でその小さな頬を大きく膨らませた。どうやら機嫌を損ねたらしいとはすぐにわかったのだが、命令通りに歌っただけなのに、どうして不興を買ったのかがわからない。ぽやっとそのまま眺めていると、丸い瞳をきゅっと細めて、精いっぱいに睨み付けてきた。頑張ったところで威圧などされないのに、懸命なさまがなんだか可笑しくて、そういや昔もこんなことがあったようなとを思い出す。
「『夕焼小焼』をうたってー、って言ったのに」
「合ってますよ。この後、『やーまーのおてらのかねがなるー』、と続きます」
「それは『あかとんぼ』だろ!」
王子は手足をばたばたさせて訴えてはくるけれど、小さな背丈では肩口を叩くばかりで、なんら痛みも伴わない。それよりも気になるのは発言だ。同じ歩幅で歩いていた足を止め、つられて王子も止まったところで少しかがんで、その細めた眼に訴え返す。
「『赤とんぼ』は、『ゆうやーけこやけーの』、です」
「あっ」
しまった、と言わんばかりに王子が口を押さえる。
「王子、私を騙そうとしましたね」
少々声を低めると、先ほどの威勢はどこへやら、今度は目尻に涙を溜めて、だましてないもん! だってひっかかってないもん! と実に幼い言い訳を始めた。やがてふるっと肩を震わせ、鼻水混じりの嗚咽を漏らす。反応を見ればおそらく図星なのだろう。
そのような行為は良くないと思えばこそ王子に忠言しているのに、これではまるで王子をいじめているかのようで、これだから子守りは嫌なんだ、とくろボンのため息は深くなる。その内に鼻水だか汗だか涙だかわからないぐしゃぐしゃの顔になって、さしものくろボンも良心が痛んだ。
こういう時どのようにして諭したら良いのだろう。大人相手に渡り合うのも苦労ではあったが、理屈が通じないだけ子供の方が厄介だ。まして、決して愛想良くなど出来ない自分が、歌のお兄さんよろしく小さい子に好かれるようなこともないのに。
「嘘つきは泥ボンの始まり、というのはご存知ですね」
「みんなウソつくもん、どろボンじゃないもん……」
「……そうですか」
出来るだけわかりやすく、出来るだけやさしく聞かせようとしたくろボンの決意は、あっさりと曲がりそうだ。だいたい、王子の警護と言えば聞こえはいいが、ようは散歩の付き添いなんぞ、親衛隊長の役務の範疇なのだろうか。しばし頭を垂れながら考えて、更に考えて、ようやく顔を上げる決心がついた。
「そうですね、王子が人を騙す訳がありません。ということは、貴方は王子ではありませんね」
えっ? 呆気にとられる王子をよそに、くろボンは一人帰り始めた。そのまま二人の距離はどんどん隔たれてゆく。十歩くらい離れたところで、後ろからぱたぱたと足音が聞こえてきたが、構わず少し歩幅を広げて先に行ってしまう。これでも大分ゆっくりと歩いてはいるけれど、元々歩くのが速いこともあって、まして幼い子供では到底追いつけないだろう。どんなに行っても距離は埋まらないままだ。そういう計算をしてしまうところが、嫌な大人だなと良心を苛む。
待ってよ、行かないで。よく似た声を以前にも聞いた気がする。自然と逃げるように足取りは速まる。なのに、なにか足にまとわりついたように、気持ちでは遅くなっているように感じる。規則正しく速くなっていた後ろの足音が、ぱたりとリズムが止んで、べしゃっと弾ける音で、王子が転んだのだと理解したのは数秒後のことだった。
王子、思わず振り返って呼ぶ声は自分でも驚くほど震えて、そんな声色に驚いたのか、王子は擦りむいた傷みに涙を散らすよりも先に顔をあげた。うっすらと朱く滲み始めた膝は相応に痛そうに見えた。案の定、瞬きをやめた眼が端からゆるんで、先の涙も乾かぬ内にまた別の大粒の滝を零すのだった。
しまった、まずいことをした。悪いことをしてしまった。
怪我の具合はきちんと手当てさえすれば大事になど至らなそうだし、それで王が腹を立てるなどはないだろうが、小さい子供はほんの擦り傷でさえ痛がる。どうして自分はこうも泣かせてまうように動くのだろう。王子は言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ぺたんとあひるロンのように座り込んでいる。今度は自分へのため息をついて、ゆっくりと歩み寄り、腰を落とした。
……申し訳ございません。そう言うつもりだった。
「ごめんなさい」
くろボンが言うより先に、王子に先を越されてしまった。
「うそつこうとして、ごめんなさい。……だから、行っちゃわないでよぉ……」
差し伸べようとした手がぴたりと止まる。楔のようだった。胸の一番奥深くに突き刺さり、動きを止めるのには鋭すぎるくらいだった。己こそ謝らなくてはいけないのに、そういった言葉がすべて吹き飛んでしまって、ようやく「立てますか」、と小さく絞り出すのが精いっぱいだった。
王子は迷いなくくろボンの手を取った。手持ちのハンカチ布で軽く手当てした後、また城への道を帰り始める。
「……くろボンってさ、王子のオレのいうこと、ぜんぜんきいてくれないよね」
「王の命令もあまり従いませんでしたので」
「そういうのって『フケイザイ』っていうんだよ」
「でしたら、裁いてくれて結構です」
段々と難しい話になってきたのを察したのか、王子は握るのを強めるだけで何も言わなくなった。
徐々に日暮れは早まってきている。寒くなってくれば、散歩の時間も短くなってゆくだろう。外に出ることもなくなるかもしれない。いずれ、一緒に歩くことも無くなるのは、そう遠い話でもない。丸くゆらめくお天道様が、地平線につくかつかないかの位置で浮かんでいる。空の淡い青と陽の強い赤が混じりあって、まっさらな雲を染める風景。この時が好きだというのは、珍しく主従で一致するところだった。
「おぉてーてーつーなーいーでー、みーなーかーえーろー」
烏として従えるのはこの陽が沈むまでだと、王子の歌声が告げていた。
