ぬくもりに名前をつける

「しろボン」
 突然耳元に吹きかけられた、吐息交じりの声。少しやわらかく少し低い聞き覚えのあるその声。さしも寝坊癖のあるしろボンを、ベッドから跳ね起きさせるには十分であった。勢いのまま、壁にぶつかるほど後ずさりをしてしまった。
 こんな心臓に悪い寝起きは初めてである。まだ鼓動が安定せず、息が整わない。無意識に何か武器になるようなものを探ろうと、布団の上をぱふぱふと叩くが、何もない。自分でも驚くほど慌てる様子に、いつもはきつく口を結んでいるくろボンが、にわかにその口元をゆるめたように見えた。

「今日は出かける約束だったろう。お前が寝坊するから、起こしにきてやったんだ」

 そうだったっけ、そういえば。しろボンは差し出された手を借り、体重を預けてその身を起こした。
 窓を見れば太陽はとうに登っている。掛け時計に視線を移せば午前十時過ぎ。確か約束は九時だったっけか、そんな気がする。だったら一時間もくろボンは待っていたことになるのだが、殊更時間にうるさい彼が、どうしてそんなにも、何もせずただじっと、待っていたというのだろうか? 聞いてみたら、しろボンの部屋に入って、未だぐーすかと寝ている様子を見ていたら、時間が経ってしまったのだということ。その内いたずら心が芽生えて、つい名前を呼んでみたということだった。

 だったら、もっと早く、やさしく起こしてくれればいいのに。頬を膨らませながら、くろボンの後ろについていったところで、ドアノブがガチャリと音を立てる。扉を開けると、街では縁日が開かれていた。『たこロン焼き』『焼きそば』『あんず飴』『チョコバナナ』、あかあおきいろ、色とりどりの屋台が並んでいる。そこかしこからおいしそうなにおいが運ばれてきて、前を歩くくろボンのマントのたなびきすら気にならなくなってしまう。目移りしている様子に気がついたのか、突然くろボンが振り向いて、ちゃんと前を向いて歩け、俺から目を離すなとたしなめられた。

「ああオレ、ビーダマすくい、やりたい」
「後にしろ」

 くろボンには目的があるようだ。他の屋台など目もくれず、一直線に通りを突き抜けていく。他の家族連れや恋人同士などは、笑みをこぼしながらこの祭りを楽しんでいるのに。どうして、なんで。くろボンは、オレといても楽しくないのかな。

 危ない、叫び声に上を向いた。巨大な影。五本の指と、肉球と、爪。クマロンの足のようだ。自分の何倍もある。空から降ってくる。踏みつぶされてぺちゃんこになる。ああ、死んじゃう。思わず目を瞑る。
 身を引っ張られる感覚がして、そのままに、地面にもんどりうった。大地を抉るような、いやまさに抉った、轟音とほぼ同時。遅れて砂埃が舞い上がったのか、のどに流れ込んできて激しく咳き込む。

 ゆっくりと目を開けると、くろボンに押し倒される格好でいた。怖いくらいに顔が近い。そのまま、大丈夫か、今朝と同じ声でささやかれる。しろボンは、平気、と精いっぱいに絞り出したけれど、返事を聞いているのかいないのか、くろボンは体の砂を軽く払う。そして、木立の真ん中にぽっかりと空いた少し高いつばくみで、大きな赤いギンガムチェックのマントを敷いて、その上にテーブルセットをこしらえ始めた。

 まるで映画に出てくるかのような、貴族のうんと偉い人の、優雅なお茶会といった風情だ。真っ白いテーブル、真っ白い椅子。どちらにも脚には蔦の様な装飾が施されてある。テーブルクロスはシートと同じ赤いギンガムチェック。カップとコースターまで丁寧に用意してあって、綺麗な花の模様が描かれているが、詳しくはないので何の花かはわからない。いつの間にか、同じ模様のポットから透きとおったオレンジ色の紅茶が注がれていた。少し酸っぱいような、だけども甘い香りがする。『Would you like a cup of tea?』席の前には、おおよそそう書かれた純白のカードまで用意されている。

「さあ、さっき買ってきた、ケーキでも食べようか」

 くろボンに招かれるままに、しろボンは席に着いた。紙ナプキンを広げると、シフォンケーキだというドライフルーツ入りの角丸パンが、生クリーム添えで差し出される。フォークで一刺し、一口でほおばり飲み込むと、しろボンは先ほどから疑問に思っていたことを投げかけてみた。

「なんで今日、くろボンはそんなに優しいの?」
「お前のことが、好きだからだろうな」
「ふーん」

 遅れて口からチョコレートのほろ苦さが広がる。カップのロイヤルミルクティーはまだ火傷しそうなくらい熱かった。これではとても飲めそうにない。

「それじゃ、行こうか」
 軽く頷いて、席を立つ。くろボンは少し早足だった。遅れまいと後を駆けていく。いきなり踏み入ってきた侵入者にびっくりしたのか、小鳥たちは鳴くのをやめて飛び立っていった。ああ、どこへ。去っていくのを目で追いながら、しろボンはくろボンの手を掴んでいた。はぐれないように。

 そうだ、これはきっと夢だ。
 だってくろボンがこんなに優しい筈がないから、こんな物足りないのは、きっと夢だからに違いない。

「どこへ行くの?」
 空を仰げば、蘭閃石を平たく伸ばしたような、濃い藍色の中に数えきれない点々が浮かんでいる。今日もいい天気だ。するり、ふと前を行くくろボンの気配がなくなって、握っていた筈の彼の手は無くなっていた。暖かいと思っていたのは、太陽のにおいをふんだんに吸った布団であった。

 そしてまた、今度は苛立ちを含んだ声で、名前を呼ばれる。