お前は夢などみなかった(没)

 平素バナナの皮などで滑る人間はいないのだ。だからこそ、その約束が果たされた時に、人はげらげらと笑うのだ。

 石畳の上にそれは置いてあった。為政に関わる人間としては、こんな街中に放置してけしからん、と誰ともわからぬ犯人を一喝し、可及的速やかにくず箱へ放り込まねばなるまい。
 王子の散歩に後ろからついていたくろボンは、あまりにどっしりと存在感を示すバナナの皮に、世間話などそっちのけで釘付けとなっていた。喋る本人は、こちらに顔をよこしているので、それに気がつきもしない。
 知らせてやろうか、足元にバナナの皮が迫っていることを。そうしたらこいつはどんな反応をするだろうか。予想では、一度立ち止まって、つま先で様子を見ながら踏みつけ、滑ってみようと試みるも失敗、まで見えている。一番恥ずかしいパターンだ。
 そうなると、街中の注目を浴びてしまうな。それは困る。こいつがバナナの皮を足に敷いたら、早急にその場を離れよう。……いや、それは隊長としてどうなのか。いくら平和な街とはいえ、一国の王子を置いて逃げるというのは。ならば、少しずつ距離を取ろう。他人とも道連れともとられないような、話が聞こえるギリギリの距離まで。
 ねえ聞いてる、と王子は足を止めてしまった。これは想定外だ。ちょうど一歩ほど手前、こちらに向き直って。くろボンが返事を出来ないでいると、更にこちらに近づいて、皮から距離が出来てしまった。これではとても滑りそうにない。

 そこでくろボンはひとつ重大なことに気がついた。それは自分が護衛で来ているということだ。王子に万が一のことが起きた場合、責任は自分にあるということだ。すなわち、王子がバナナの皮で滑って頭でも打とうものなら、それだけでくろボンの進退問題へ発展してしまうという訳だ。
 そんなバナ……馬鹿なことは避けなければならない。いけないいけない。好奇心から自分を見失うところであった。そう、何も起きないに越したことはない。身をもって知っているではないか。

 やや間があって、正直に「聞いていませんでした」と答えながら、バナナの皮を拾おうとする。すると振り向いた王子が「待って!」と親指と人差し指を開いた寸前の状態で止めさせた。こちらは訝しそうな目を向けたのだが、すでに王子の視線はバナナの皮の虜であった。くろボンを皮から離れさせ、息をのむように肩を震わせる。
 王子、と声をかけたが聞いてやしない。ああ多分、こいつは予想した通りの行動をするのだろう。くろボンは腹をくくった。一応止めようとはしたのだ。後はこいつ自身の責任だ、どうなろうと知っちゃこっちゃない。幸か不幸か、人通りの多い地区であるから、証人はいくらでも呼べる。

 王子が意を決したように、左足をゆっくりと持ち上げた。踏みつける――滑ったふりをして転んだふりをする。そう思った瞬間だった。
 踏み出した足が、バナナの皮の先端を弾いた。反動で天高く舞い上がる。ゆっくりと弧を描いた後、ぺちゃ、と情けない音を立てて、王子の頭に着地した。
 それはもう、10点を付けたくなるような見事なものだった。美しさに見とれていたのか、驚きで言葉を失ったのかはわからないが、一同の注目を集めて、その場の時は固まったのである。

 ふっ、と口から空気が漏れるのがわかった。
「あ、今笑ったな!!」
「気のせいです」
 淀んだ空気が一気に動き出した。王子は赤面しながらくろボンを指差しなじる。
「だって聞こえたもん! ぷって笑ったの聞こえた!」
「寝ぼけているんじゃないですか。それより、早く捨てたらどうです」
 地団太を踏んでいた王子は己の醜態を思い出したようで、はっ! と頭の上に手をやった。まるで帽子か鬘の様に乗っかっているそれを、悔しさを存分に込めるように丸め込んで、地面に投げ捨てようとする。

「なりません。ごみはくずかごへ。常識ですよ、王子」
 王子はその手を止めて、言葉にならない声で唸りながら、とぼとぼと近くのくずかごまで歩いていった。その背中があまりに憐憫を誘うので、今度の会議では街の清掃活動について話し合おうか、とくろボンはうっすらと思った。

没理由:
おそらく一番最初に書いたもの。盛り上がりに欠けますねえ。