くろボンが訪ねると、しろボンはまだ眠っていた。
傍まで近寄ってようやく気がつき、重そうな瞼を片手にこすって、ベッドから身を起こす。
「いつまで寝ている。食事の時間だ」
「ええー……もう?」
ぐずるしろボンをよそに、くろボンは水の入った桶をナイトテーブルに置くと、すぐに食卓を整えにかかった。後ろでは、しろボンが、くろボンの持ってきた桶の中で顔を洗っている。
まったく、なんとも優雅な暮らしであると思う。
この一間の部屋で、生活の全てが賄える。身の回りの世話は滞りないようくろボンが仰せつかっているので、しろボンはこの部屋を出る必要が全くない。日がな一日、上等な純白のベッドの上で過ごすことが出来る。
ただ時々、そんな生活が囚人のようにも思えてしまう。
もちろん、それは心の内だけで、口に出すことはないけれど。
テーブルとチェアを丁寧に並べて、立派な食事の場が設えられた。いっぱしのカフェのようである。卓上には、青々としたスケルトネマのパスタが盛り付けられている。それを認めた瞬間、しろボンは目を円く大きくして、「いただきます」の挨拶もそこそこに、勢いよくかっこみ始めた。
「もっと行儀を正せ」とくろボンが窘めると、「ごめんごめん」と一応は謝りつつも、「だって、食べないと死んじゃうじゃない」ともっともらしい理屈をつけた。先ほどはあんなに面倒くさそうにしていたのに、変わり身の早い奴である。
「くろボンってさあ、なんだかお父さんみたいだよね。いやお母さん?」
言われて、くろボンはきょとんとしてしまった。
確かに己の役割の違和感については感じていたものの、そう評されるのは意外だった。
「だってくろボンは、オレを守るのが役割なんでしょう? ご飯だって、いざとなればオレ一人でなんとかなるし……」
「……お前が立派になるのに、心を尽くせという命令なんでな」
言いながら、命令というよりは、本能、自主的なものに近いような気がしていた。
実際、外敵も多かった。『木の葉を隠すなら森の中』というけれど、同じような建屋が並ぶ住宅街の一室がこの部屋だ。ちょっと行けば悪い虫なんていくらでも屯しているし、これが王子の住まいだと知っての襲撃も数知れない。その度にくろボンは脅威の全てを立ち退かせた。
しかも、中はこのように豪勢な造りになっているが、外壁は至って簡素で脆かったのである。台風など来た日には、ぐらぐらと部屋がわなないて、そこかしこから雨漏りしたものである。 この純粋培養のしろボンが、手際よく対処出来る筈もない。
こいつは、俺がいないと駄目だ。その危機感こそが、くろボンの動機である。
「そうだ、忘れていた」
しろボンが「ごちそうさま」と手を合わせたところで、くろボンはふと現実に帰り、席から立ち上がった。壁際の装置に手をやると、穏やかな音の調べが静かに湧き出してくる。いつも、クラシックを流していたのに、今日はすっかり失念していたのだ。
「好きだよねえ、くろボン。音楽かけるの。これ、なんて曲だっけ」
「パッヘルベルボンのカノン」
「そう、それ」
しろボンが手を叩く。
別にくろボンとてクラシックを嗜む上品な趣味がある訳ではない。しろボンの教養の為である。
さて、と間をおいて、食事の後片付けを始めた。
食事が済んだら、勉強の時間である。
王子として必要な素養は、博識であることではない。まずは品格、立ち居振る舞いである。
「立て」
放っておけば、食後の余韻にどっかり腰を下ろして爪楊枝をくわえかねないしろボンを、無理に手を取って立たせる。クラシックの音楽と相まって、くろボンに体重を預け起立するさまは、さながら舞踏会を思わせた。
「姿勢を正せ。そう。腰の後ろに逆三角形がある。その中心を立たせろ。そこから頭のてっぺんまで一直線。脇は締める。肩は後ろだ」
言われた通り、しろボンは姿勢をとる。定規のようにぴんと真っ直ぐ、直立不動のまま固まった。
「息、しづらいんだけど」「普段丸まっているからだ」
抗議の声を受け流し、しばらくその姿勢のまま留まらせた。バケツを用意すれば、懲罰で立たされる生徒のようだ。やはりまだ、しろボンが優雅な雰囲気を醸し出すのは遠いようだ。
「あ、待って」
しろボンが突如思いついたように、その定規の姿勢を崩さず、ピョンピョンと跳ねながら壁際に寄っていく。
「どう? 背、伸びたでしょ!」
そう言ってしろボンは得意げに背を逸らせた。確かに、柱を見ると、わずかに大きくなっているように見える。
「これもくろボンのおかげだね。ありがたやー」
まるでお地蔵さまを拝むように両手をこすり合わせて深々と礼をするので、くろボンは無性に苛立った。
「ふざけるな。そこから右足を軽く引いて右手を前に出してビーダマの上胸のあたりにに指は揃えて……」
「わからないよ!」
しろボンがあたふたと右手と右足を上げ、ロボットダンスのようなぎくしゃくとした動きをする。
「くろボンのおかげだね」という言葉が妙に胸に残った。表情には出さないよう努めた。
通り何遍か繰り返して、そろそろしろボンにも集中力の切れが見え始めたので、ぱんと手を打ち鳴らして、行儀作法の練習は取りやめとなった。
しろボンはよろけるようにベッドに尻をつき、天井を見上げながら、ふーっと深い息を吐く。
「……なんで、こんなことしなくちゃいけないのかなあ」
「それは……」口を開きかけたくろボンをしろボンが遮る。
「わかってるよ。王子だからってのは。だけどさ、毎日こんなところに籠りっきりで、何が王子なんだって思うよね」
くろボンは言葉に詰まった。それは、もっとも気づいてほしくない本質だったからだ。
しろボンが振り返って、小さな窓枠に広がる群青の海を眺める。底が抜けたような透きとおる青で、その中に、群れた鳥が何羽か舞っているのが見える。
「いいよなあ。オレも外に出られたらいいのに」
それも当然の願いだった。
くろボンがしばらく黙っているのに気づいて、「あっ、別にくろボンのせいじゃないからね!」と弁解を入れられるが、それは単純に音としてしか耳に入ってこなかった。
「……そろそろ、出られるさ」
「ホント?」
しろボンがぱっと飛び上がる。
「ああ。そろそろ、王宮から迎えが来る」くろボンは言い聞かせるように大きく頷いた。「だから、それまでの辛抱だ」
「やったー!」
しろボンは万歳をしながらつま先立ちでくるくる回りだした。
「あれ? そしたらくろボンはどうなるの?」
くろボンは曖昧に言葉を濁して、ただ、壁際の背丈を計った傷を見つめていた。
そろそろ、天井にくっついてしまいそうだ。
***
明くる日も、同じようにくろボンはしろボンの部屋を訪ねた。もう幾度となく繰り返された習慣だ。
相変わらず返事がないので、構わずくろボンは中へ踏み入った。
──誰も、いない。
息が詰まった。
家具も、そのまま。ベッドは綺麗にめくられている。しろボンだけが、この場にいない。
どこかへ行ったのだろうか? いや、行けるはずがない。だってここには、出口など一つしかない。
弾かれたように窓へ視線を振ると、扉は大きく広げており、薄くもやががった景色が覗いていた。
この窓はしろボン自身の意思で開けられるものではない。開けたとしたら、闖入者しかいない。
しろボンは、闖入者の手によって、連れていかれたのだ。
とうとうこの時が来てしまった──。くろボンは、悟った。
開かれた窓から隙間風が入ってくる。風に乗って、託宣が頭から降ってきた。
──今まで、ご苦労様。
しっかりと、しかし無慈悲な言葉だった。
──こりゃあ立派に育ったもんだ。これなら、王様の飾りには十分だろう。
くろボンは窓の外をきっと睨む。だが闖入者がくろボンを見つけられないように、くろボンからも彼らを認めることは出来ない。
きっと今頃、しろボンをつまんで、王子としての品質に、悦に入っているに違いないのだ。
真珠が取れた今、この家にもう用はない。
窓の隙間から、突如槍が突き出される。あるいは闖入者にしてみれば鉤か。それは部屋の内装を全て削ぎ取って、外の世界へ掻き出してゆく。
ばしゃんばしゃんと、部屋の中身が水に落ちていく音がする。自分のその内、あそこへ落ちる。
わかっていたことじゃないか──。こうなることは。
自分は、自らがさんざ馬鹿にしたお飾りを、ただただ育てるための存在でしかないことに。
じっとその時を待っていると、とうとう鉤はくろボンを引っかけ、外へ引きずり出した。
──おや。もひとつ何か混じっている。
初めて見る空は、海よりも淡く、眩しかった。
ちょっと訳がわからなすぎました
