まず朝には散歩ついでに、地球の方を眺めるのが日課だ。
といっても冥王星と地球は自転も公転もまるで違う為、いちいち計算しなくては位置も何もわからないものだが、それはそれ、くろボンの計算能力からすれば大した難問でもなかった。
とはいえ、あれだけ強烈に燃えている太陽ですら、ここでは点と認識するのが精いっぱいなのだから、眺めてみたところで、地球の姿など見える筈がない。ましてや、王宮すら。
日課とは、大抵そういう、大して意味のないものが多い。気持ちを落ち着かせる為の手段、と言えるだろうか。
そうして、地球の方を、加えるなら見えもしない地球宮の様子を想像してみて、くろボンは止めていた足を再び進めだす。
時刻は朝6時。地球では空が白んできたところだろうか。
太陽の恩恵を殆ど受けられない冥王星では、人口太陽が幅を利かせている。それでも本物の太陽には、温かみも、力強さも、まるで敵わない。自然の凄さは、人間の決して立ち入れない領域にあるのだと思う。
どこか映画館の開演前のような薄暗さの中、どうせ、しろボンは太陽の恩恵があろうがなかろうが今頃寝ているだろうと括って、くろボンは日課の終着点に辿りついた。
実家、と表現するのが適切なのかわからないくらい無沙汰している、研究所が今の住まいだ。
鉄筋の山のような佇まいでありながら、どこか傾いだ歪さもある。百人乗っても大丈夫かどうかは疑わしい。
そんな珍しい建物であるから、こんなぺんぺん草も生えないような荒れ地にあってもよく目立つ。悪い意味で。
入口の前に立つと、顔パス、正確には生体認証でロックが解除され、分厚い鉄扉が横滑りする。
中は靴音が響き渡るほど広い。けれど、住人はくろボン一人きり。
一緒に暮らしていた祖父はとうに亡く、唯一の家族である弟は、くろボンが帰ってきたのと入れ違いに、宇宙各地を飛び回る旅に出てしまった。せっかく里帰りしたのに孤独とは、ぐっと文句も出掛かるが、それまでずっとこの家を守ってきたのは弟なのだ。地球で好き勝手してきた自分にとやかく言う権利はない。ちょっとは地球の土産話に耳を傾けてくれてもいいとは思うけれど。
親衛隊で毎日役務に追われていた頃とは違い、今は時間が有り余っている。
一人分の朝ごはんを適当に拵え、適当に食し、既に朝のスケジュールは消化してしまった。
地球にいた頃は、毎日早番と遅番の引継ぎがあり、会議があり、稽古を視察し、書類をこなし、取り付く島も無かった。その上しろボンがちょっかいを出してくるものだからたまらない。例えるなら、必死に遠泳しているところに、気ままに漂いながら突然現れたクラゲ、こちらを溺れさせようと突然刺してくるのが、しろボンという存在だった。
……いや、さすがにそれは言いすぎか。
少なくとも波乱含みで、退屈しなかったのは事実だ。
そんなぎゅうぎゅう詰めの日常から、突如がらんどうの日常へ変わってしまったので、自ずと地球のこと、ひいてはしろボンのことを考えることが多くなった。
一応新聞やニュースで様子を伺い知ることはできるけれど、それらが扱うのは至極真面目なネタばかりで、もし普段通りのしろボンを密着取材しようものなら、到底三十枚や四十枚の紙面で伝えることは出来ない、一大スペクタクルとなるだろう。
それは今を物足りないと思っているのだろうか? あれだけ迷惑がっていたのに、とくろボンは自嘲する。
いや、失ったものが惜しく感じるのは心理的錯覚だ。だからきっと気のせいだ。
ぼやぼや考えながら、広い床をモップで拭いていると、突然インターホンが鳴った。
画面を見ると、白い前掛けを身に着けた、中年のふくよかな女性だった。小さい頃からくろボンたち家族を見知っている、いわゆる『近所のおせっかいおばさん』だ。近所といっても、隣の家まで何百メートルと離れているのがざらであるから、おとなりさんと言っていいのかはわからないが。まして長く故郷を離れていたくろボンにとっては、なおさら馴染みが薄かった。
何の用だろうか? 思いつつも、どうせ暇であるので特に考えずドアを開ける。
相変わらず、この研究所は堅苦しいねえ──そんなことを言いながら、おばさんは一つ包みを渡し、勝手知ったる他人の家、遠慮なしに踏み入っていった。確かに、人がいない時でさえ、鍵を掛けずに出かける人もいる中、この冥王星で、こんな厳重なロックがあるのはここくらいなものである。いや、それは他の家がおかしいのであって──。
それより、どうしたんです。くろボンは、居間に通した後、来客用の白い上等なカップにコーヒーを注いで持ってきた。
別に、ちょっと寄ったから。おばさんはそう答えるが、この辺に寄るようなところなど無いので、すぐに方便だとわかった。
地球の様子が聞こうと思ってねえ。おばさんはそう言う。
大陽系の中で、一番発展しているのが地球だ。大きくなったら、地球で働くんだ、という子供も多いらしい。くろボンも小さい頃は、宇宙一のテーマパークと期待を膨らませたものだ。
しかし、あまり根掘り葉掘り聞かれるのは好きではない。一国の親衛隊長まで上り詰めたくろボンであるから、帰郷の際はあれこれ突っ込まれないように気を遣ったのだ。
まあ、暇だし、お世話になった人だし、弟に聞かせるつもりだった話を、彼女にしてもいいだろう──くろボンはそう思い、おばさんとテーブルを挟んで斜向かいに腰を下ろす。
地球というところは、明るい。光が届くから、木も、水も、色鮮やかだ。石さえも彩り豊かだから、家もめいめい洒落ている。城の屋上から見れば、まるで花畑のようで──。
話している間、こんなに熱弁が振るえるものなのかと、くろボンは言葉を出しながら不思議に思っていた。
自分の中にテープレコーダーが埋め込まれているみたいだった。
本当は屋上に、勝手に立ち入ってはいけないのですけど。王子がそこでよく昼寝をしているんですよ。まるでそこが寝床のように。だったらそこにベッドでも置けばいいのに。ええ、王子というのは、世間では庶民的な王子、と言われているようですが、もうちょっと王族的な振る舞いも身につけて頂きたいものです。
大丈夫ですよ、このくらい言っても。あいつ──失礼、王子には『不敬罪』なんて言葉、知らないですから。笑って許す、というのもどうかと思うのですが。威厳がまるでない。
おばさんは時折質問を混ぜながら、相槌を打っている。
じゃあ、寂しくなるわねえ。
全然。
くろボンはすぐに頭を振ったが、自分がした返事を自分の中で噛み砕いているようで、しばし真顔のまま二の句が真っ白になってしまった。
──寂しいというよりは。
何とか、口に出しながら、頭の中のこんがらがりを紐解いていく。
むしろ、せいせいしてますけど。地球にいた頃は、お手洗いに立つタイミングも計らなければならなかった。そうした貴重な時間さえ、あいつは奪っていったのだから。
けれど、今なら、時間が有り余っていますから、相手をしてやってもいいかなと思っています。
本当に、忙しい時はうっとおしく感じるのに、いざ退屈になれば物足りなくなる。
ちょうど合わせて半分になればいいのに、上手くいかないものですね。
くろボンはそう締めくくった。
おばさんは、口の中に留めるようにふふっと笑い、小さく手を叩いた。
良かった。くろボンちゃんが楽しそうで。
くろボンちゃんと王子様、いい友達だったのねえ。
心外です。
そうね、『だった』じゃ変よね。
くろボンの不服そうな顔に気づいていたかあるいは知らないふりなのか、おばさんはそのまま帰っていった。
久々にたくさん話したからか、喉の奥がカサカサして突っかかる気がする。
冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、コップに傾けながら、先ほどおばさんが置いていった包みを見る。
要冷蔵。そう書いてある。
生ものか──中身が気になって、くろボンは白い箱を開けた。
……よりにもよって、ショートケーキとは。
滑らかな生クリームに、炎のような苺。二層になっていて、分かれ目にはさらに半分にスライスされた苺が挟まれている。
誰かを思い出す。地球の話をした後なら、なおさら。
苺は最初に食べるか最後に食べるか? そんな議論とも呼べぬやりとりをしたことが思い出される。
戦場ではいつ死ぬかわからないから、食べられる時に食べておきなさい。
楽しみを最後にとっておくからこそ、そこまでの道のりも楽しく感じられるものだ。
議題の割には侃侃諤諤としていたと思う。
しろボンは後者の意見を支持していて、くろボンは、『お前にしては、辛抱強いことをいう』と珍しく感心したのだったが、その皿に視線を落とすと、ケーキはまだ半ば攻略中であるのに、既に苺は無くなっていた。
くろボンがため息をついて、まだ残っていた自分の苺を、そっとしろボンの皿に移し替えた。
口の端についたクリームにも気がつかないで、大真面目にそう主張されては、何だか言い返す気も無くなってしまったのだ。
しかし、ショートケーキを見て、思わず嘆息したのはもう一つ理由がある。
おばさんは、この一人住まいのお土産に、二つ買ってきたのだった。
くろボンは、甘いものは嫌いな訳でもない。けれど特別好きな訳でもない。健康面を考えるならば、そう毎度食べるのは憚られるので、滅多に口にはしない。きっと、その間に美味しい頃を過ぎて、腐らせてしまうだろう。
せめて弟がいたら……。
しばらく箱の中で光りを放つケーキを苦々しく見つめていると、沈黙の中に甲高い電子音が鳴り響いた。インターホンだ。
まったく、今日という日はなんて来客が多いんだろう!
どうにも腰が重くてのったり玄関に向かっていると、それよりも先に、来客は家の中に上がり込んでいた。
弟だった。
やあ、おかえり! この場合帰ってきたのは弟の方だというのに、開口一番、弟がそう手を挙げた。
ああ、ただいま。くろボンはあまりの驚きに固まって、ぎこちなく言葉を出す。
弟はそんな兄を気にも留めないようで、するりとくろボンの脇を抜けていくと、真っ先にケーキの箱を覗きこんだ。
わあ、地球堂のケーキじゃない! 美味しいんだよね。どうしたの、これ? 弟は箱の中を指さしながら、振り返って問うてくる。
もらった。わあ、じゃあ早く食べよ!
まったくなんていうタイミングだろうか。ケーキをもらった途端、弟が帰ってくるなんて。もしかして窓の外から見てたのだろうか? そんな筈はないだろうけど。
今度、弟を呼びたくなったら、菓子でも用意して窓を開けてみようか。そんな冗談めいたことを考えながら、くろボンは手際よくコーヒーの準備をする。
あっ、おれ、練乳いれてね。
練乳! ケーキがあるのに?
甘いのに甘いのがいいんだろ。
くろボンにはその理屈は承服しかねただったが、言われた通りに激甘仕立てのコーヒーを入れる。くろボンのは名を表すように、ブラックだ。
先ほどおばさんとしたように二人向かい合って座り、コーヒーをすする。
何だかお尻が温かいと弟が言うので、先ほどまでおばさんが来ていたことを伝えた。このケーキはそのお土産だとも。
へえー、おれも会いたかったな。社交辞令のような軽さで、弟はケーキにフォークを入れた。
前までずっと居たのにか? だって、しばらくぶりだし。
くろボンもケーキに手を付けようとしたところで、フォークに苺をぶっすりと刺したのを持ち上げて、弟はにっと口の端を吊り上げながら、身を乗り出してきた。
兄さんは、最初に食べる? 最後に食べる?
呆けたように弟の顔を見つめ、肩をすくめた後、くろボンは己の苺を真っ先に口の中に放り込んだ。
──なーんて、全部オレの想像だけどね。
くろボン、今頃元気かなあ。
オチが余分なんだけど、省くとお題から外れてしまうので
