正しく云えばさよならになる

 初めて会った日は、まだ少しうすら寒い、春が駆け出した頃だった。

 この頃のオレの日課といったら、守備隊の訓練を覗きにいくことだった。
 オレの部屋から階段を降り、中庭と大庭を分ける渡り廊下をつっきる。ところどころそれっぽい傷や欠けた跡がある、守備隊の詰所は駆け足で二・三分の場所だ。
 オレも春一番のように駆けていた。早くしなきゃ訓練が始まっちゃうから。
 ぴょんと最後の数段を飛び降りて、噴水のある大庭を右に望みながら、前に視線を戻した時だった。
 廊下の端に座って──誰か、いる。
 黒く包まっているので、最初は失礼だけどゴミ袋か、あるいは烏ロンか何かだと思った。でも、あの丸いぼんぼりはBビーダマンのものだ。ゴミ袋に見間違えてしまうくらい、小さく、丸くなっていたのだ。
 多分、オレと同じくらいの子。
 そんな子がお城の中にいることが珍しいので、オレは思わず急ブレーキを掛けて、その子の後ろから声をかけた。

「どうしたの? 迷子?」
 するとその子はびくっと肩を震わせて、ゆっくりとこちらを向いた。
 オレとしては悪いことをしたつもりはないのに、こういうのは『がんをとばす』というのだろうか、ものすごく顔をしかめて、きっとこちらを睨んできた。まゆ毛も時計の十時十分のように吊り上がってる。十一時五分かもしれない。
 おそらく九時十五分だったなら、二月には女の子からいくつもチョコをもらえるような、モテモテな男の子だったに違いないのに。
 今度はオレがびくっとなってしまって固まっている間、その子はお尻の砂を払って、おもむろに立ち上がった。
 背丈は、思ったよりある。オレと同じくらいかな? オレの方がちょっと高いかな?
 だけど、その子のもってるオーラが、立っているだけでかまいたちが渦を巻いているようで、思わず背中が反り返ってしまう。

「迷子じゃない。」
 滝の流れるような、力強い声で、黒い子は言った。
「あ、ああ、そうなの。」
 オレは返事をするのにも汗だくだ。
 だけどこれは貴重なともだちをつくるチャンスでもある。負けてはいけない。
「ここは、知らない子が勝手に入っちゃいけないんだよ。兵士さんに見つかったら危険だから、あっちを通っていけば、知らない人でも入っていい所だから。」
 オレは出来るだけ優しく説明したつもりだった。
 ……しまった!
 ともだちを作りたいのに、なんで追い出すようにしてるんだろう!
「知ってる。」
 その子は置物のようにまったく動こうとせず、さらにきつく睨み付けてきた。
 ……正直、こわい。負けるなしろボン!
「じゃ、じゃあ。お父上の仕事についてきたのかな?」
 精いっぱいに、お城の先輩っぽくする。『あいそわらい』ってやつ、初めてした。
 だってこの子、ニコリともしないし、鋭い目のままオレを刺すんだもの。

「……守備隊にきた。」
「守備隊?」
 聞き間違いでなければ、その子は確かにそう言った。
「なんだ、オレと一緒じゃん! だったら一緒に行こうよ、ここ抜けたらあるからさ。」
 オレは黒い子の手首を持った。
 その子はじっと掴まれた手を見ていたけれど、オレの目の中に視点を合わせて、はっきりと言った。
「断る。」
「え。」
 オレは呆気にとられて、思わず手を放してしまった。
 黒い子は体をひるがえして、すたすたと行ってしまう。
 あっちは詰所の方だから、守備隊に連れてこられたのは間違いないだろうけど……。

(あ、でもあの子、姿勢いい。なんかかっこいい。)
 マントでもしていたら、額縁の中のヒーローになるんだろうなあ、とオレはぼんやり見送っていた。

***

 次の日は、お天道様がかくれんぼする、いわゆる『うすくもり』の日だった。

 今日も守備隊は訓練なのだ。つまり、オレの日課に終わりはないのだ。
 飛び石を跳ねるようにとんとんとんと石床を蹴っていると、またもや同じところで、黒い子を発見した。
 今度こそうずくまってはいないが、上げた顔にはそれこそ雲がかかっているようで、なんだか元気がない。
 オレはその子の近くでスピードをゆるめる。
「やあ。また会ったね。」
 ああ。その子は小さく返事をしたように見えた。これは、大きな進歩だ!
 オレは嬉しくなって、砂埃なんか気にせずに、ぽすんとその子の隣で腰を下ろした。その子もオレの方をじろりと見てくるが、いやいやそうにはしてるものの、追い払うということはしない。

「この場所好きなの?」
 彼は頷く。
「家があっちにある。」
「あっち?」
 オレは彼と一緒にまっすぐ空の彼方を見つめる。
 でもあっちって、湖に森に山に、ひとが住んでるところなんてないと思うんだけどなあ。
 そんな奇妙な顔をしているのに気がついたのか、彼は一言付け加える。
「冥王星。」
「ああ、冥王星。」
 オレは繰り返したものの、その『冥王星』なるものが、どんなものかさっぱりわからなかった。
 ええと。すい、か、ちもく、どってんかい。
「お前、わかってないだろ。」
「えっ!」
 どきりとして飛び上がった。
 そんなことないよ、と頭を何回も振ったけれど、彼の視線はオレの折った指にくぎづけだ。しまった。
「まあ、そのくらい、遠いところだ。」
 しかし、オレにあきれるでもなく、どちらかというとあきらめるように、また遠い方を見つめた。

「ねえ、冥王星ってどんなところなの。」
「勉強しろよ。」
「うっ。」
 言葉に詰まって返事が出来ない。
 実際、オレは、勉強がニガテだ。
 本を読むのが嫌いではないけれど、教科書というものは、すごい親切に書いてあるようでいて、『これくらいのこと、覚えておきなさい』という、妙にエラそうな態度がニガテだ。
 オレがしょげて頭を垂れているのを、黒い子は興味深そうに見ているのがわかる。
「鉄と、機械と、何もないところさ。」
「へえ。地球から出たことないから、行ってみたいな。」
「何もないって言っただろ。」
 だけどそういう彼の調子はどうも嬉しそうで、声が弾んでいるように感じる。
 やっぱり、なんだかんだいって自分の家が一番。地球から出たことのないオレでもそう思うのだから、きっと冥王星なんて遠いところから出てきた彼は、そう思って、だからちょっと寂しそうだったのかもしれない。

「そういや、守備隊に来たんでしょ。いいの? 見に行かなくて。」
「もう終わった。」
「えっ!」
 オレは勢いよく立ち上がった。早めに出てきたつもりだったのに、いつの間にそんな話していたんだろう!
 詰所の方へ駆け出そうとして、ヨーイドンのポーズをとったところで、振り向いた。
「君は、行かないの?」
「だから俺は、終わったんだ。」
 そうか、そう言ってたっけ。
 バイバイ、と顔だけ向けて手を振ると、返してはくれないものの、こっちをじっと、影に隠れるまで見つめていた。
 兵士の人たちが組み手をしているのが見えてきたところで、そういえば、あの子の名前を知らないなと思った。

***

 なので次の日は、わいろとして『きんつば』を持っていくことにした。

 これは父上お気に入りのお菓子だ。名前が父上に似た『きんつば』だからだと思うけど、見た目は全然金色ではなくて、むしろオレの色に近い。四角い白い皮に、つぶつぶが混じったあんこ。
 父上がもらったのを、オレにも分けてくれたという訳だ。
 もらった時、まずあの子のことが浮かんだので、オレはお近づきのしるしに、このきんつばを『よこながし』することにした。

 やっぱり、案の定、いつもの時間にいつもの場所で黒い子はいた。
 特に約束したわけではないのに、これは運命というやつなのだろうか。
 今日も守備隊の訓練はあるけれど、こっちが本当の目的なので、今回はあきらめることにした。
「食べる?」そう聞くと、彼は「いいのか。」と聞き返した。「どうぞ。」とオレが頷き返すと、丁寧に両手のひらを合わせて、「いただきます。」をした後、四角の塊を手に取った。
 中にはつぶつぶのあんこがニガテな人もいる、って聞いてたから、受け取ってくれたことに安心した。

「あ。」
 口をもごもごさせながら、彼がもらす。
「なに?」と尋ねてみたけれど、手のひらをこちらにむけて、ちょっと待っての仕草をするので、彼の頬の丸みが取れて、ごくんと飲み終わるまで、オレもその通りに待った。そういえば、『口にものを入れながらおしゃべりするのはお行儀が悪い』って父上も言ってたっけ。
「これ、越前屋の。」
「エチゼンヤ?」
「高級なやつ。じいちゃんが好きだった。」
「ふうん。」
 どうやらオレが渡したのは、けっこう有名なお菓子だったらしい。オレはもらってきただけだったから、よく知らなかったけど。
 それよりも、関心をひいたのは別のことだ。

「おじいさま、いるんだ」
 すると、彼ははっと目をまん丸くした後に、すぐにぐっと細くして、余計なことを言ってしまった、と言わんばかりに、犬ロンかなにかを追い払うようなにがにがしい顔をする。
「死んだんだって。」彼は小さくつぶやく。
「死んだの?」オレもオウムのように返す。
 彼も頷く。「だから、ここに来たんだ。」
 どうしてかよくわからなかったけど、ひとにはひとの事情があることは知っている。
 オレだって、今、王子であることを指さされて、警備の人を呼び出されたらたまらない。

「でも、おじいさまのこと、好きだったんでしょ。」
 そう言うと、彼はいっそう大きく頷いて、そのまま縮こまってしまった。
 最初に会った時もこうだった。
 ということは、遠い冥王星から地球まで来て、ずっと、おじいさまのことを思い出していたのかもしれない。
「だってずっと、冥王星の方ばかり向いてるもの。」
 今日の空は、雲が邪魔しないので、遠くがよく見える。
 だけど、冥王星がどれだけ遠いから知らないから、せいぜいわかるのは月までだった。

***

 その次の日は、オレの方が先に来ていた。

 まったくの偶然だった。城の外でも心の中にもぽつぽつと雨が降って、とぼとぼと歩きついた先がいつもの場所だった。
 屋根はあるけれども庭と地続きになっているから、斜め上から降ってくるやつには狙い撃ちされて、たちまちびしょびしょになってしまったけれど、そんなことはどうでもいいほどにしょげていた。
 黒い子は、オレがいつもなら向かっているはずの、守備隊の詰所の方からやってきた。
「なんだ、いるもんだな。」
 彼は少し丸みのある声で、驚いたように言った。
 それがもし昨日とかおとといだったら、話しかけてくれたことに喜んで、ちょっと仲良くなれた! なんて飛び上がっていたかもしれない。
「雨だから、いないと思った。」
 だけど、せっかく話しかけてくれても、オレには答える元気がない。

 さあさあと、細い線のような雨が目の前を横切って、地面で跳ね返る音だけがする。
 彼もそれきりオレには話しかけなかった。しゃがみこんだオレの隣に立って、白くかすんだ裏庭だけを見ていた。
「ケンカ、した。」
 なんだかオレはここで気持ちを吐き出さなきゃいけないような気がして、恥ずかしくて我慢してたけれども、とうとう告白してしまった。
「ケンカ? か。」
 彼は一度聞き返すようにして、自分の中で納得したようにつぶやいた。
「そう。」
「そんなこと、誰にでもある。」
 黒い子はこちらを見ないまま、当たり前のように言った。
「わかっているけどさ……。」オレはなんだかもやもやがとれない。心の中もどしゃぶりだ。
 耳にさわる雨の音、目をおおう灰色の雲、その全部から逃げるように、頭を抱え込んだ。

 オレが悪かったのはわかるし、謝らなきゃいけないのもわかる。
 でも、そこまで泣くことはないだろ。文句言うこともないだろ。
 まるでオレが世界で一番の悪者みたいに言って。

「いつまでも、そうしているつもりか?」
「え?」
 黒い子が、ぶっきらぼうに視線を投げてくる。
「夜までそうやって、うずくまっているつもりか。」
「そんな訳ないだろ。」
 なんだよ、自分だって、最初はおうちに帰りたいって泣いてたくせに。
 ちょっと、いやかなり、自分でもわかるくらいにイライラしてる。良くないことだってわかってるのに、どうしても言葉がとげとげしてしまう。
「なら、どうしたいんだ。」
 でもそんなイライラに負けることもなく、強い口調で、オレに聞いてくる。
「どうって……」質問されて、上手く言い表せないオレ自身に、今度はイライラした。

「そいつと仲直りしたいのか、ずっと別れたままでいいのか。」
 仲直りは、したい。だけど……。
 今は、口もききたくない。いくらオレが悪かったっていっても、わかってても、オレだってそれなりに、言われたことには傷ついたんだ。多分、顔を見たら、もっとひどいことを言ってしまいそうで、こわい。
 許せない気持ちと、哀しい気持ちと、寂しい気持ちと、恐ろしい気持ちが、ポタージュスープの生クリームのように、どろどろと混じりあっている。
「いつ死ぬか、わからないんだぞ。」
 黒い子が釘を刺すように言った。
「オレもあおボンも、まだ子どもだよ。」
 オレは頬を膨らませてみたけれど、おじいさまを亡くしたという黒い子の言葉は、どこかどっしりとした重みがあって、なんだか明日、本当にそうなってしまいそうな、魔法のような説得力があった。
 黒い子は、まだ勢いの収まらない地雨を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。

「……このまま雨がやまなかったら、雷が、お前の頭に降ってきたりしてな。」
「え!」
 いやいや。お城の中にいれば安全でしょ。
 だけどその様子が頭の中にくっきりと浮かんで、オレは手の平で頭を押さえる。
「もしそうなったら、お前はそいつに謝る事も出来ないし、そいつはお前のこと悪い奴だって思ったまんまだ。まあ、それでいいのかもな。仲直りしたくないんなら。」
「よくない!」
 オレはバネ仕掛けのように飛び上がると、急いで城の中へ駆け出した。
「ちゃんと謝れよ。」その言葉を耳の端っこで捉えて。
「もちろん!」オレは声を上げる。「ありがとう!」
 手を振ったら、やっぱり振り返してはくれなかったけれど、手を挙げてはくれた。

***

 次の日は、ちょっとだけ晴れ間が見えた。

 あおボンとはすぐに仲直りが出来た。
 そもそもケンカしたいきさつが、湿気でぬるぬるした廊下であおボンが頭からすってんころりん、それをオレが笑ってしまったからだった。
 今思えば、あおボンが怪我してないか、頭は痛くないか、すぐに手を差し伸べるべきだったのに。
 小さい目にたまった涙をぼろぼろ零しながら、顔を真っ赤にして、「しろボンさんなんか、大嫌いです。」そう言われた。それがオレにはショックだった。
 それだけ言えるんなら痛くもないんだろ。オレもついかっとなって、言い合いになって、おさまりがつかなくなって、別れた。そういういきさつだった。

 オレが「ごめん!」と頭をさげて、手土産も持参して、「頭、怪我無くて良かった。」と言うと、今度もやっぱりぼろぼろ涙を流して、「こちらこそ、ごめんなさい。」と言ってくれた。
 それでついオレももらい泣きして、二人でわんわん泣き合って、疲れたところに、グレイボン博士がお茶を入れてくれた。「よかった、よかった。」

「……それでね、研究室の中で、三人で食べたの。これはこしあんだけど、あおボンと博士のはクリームどら焼き。おいしかったよ。一緒に呼んで来れば良かったかな。」
 今日もオレはわいろを持って来ていた。言わずもがな、父上御用達のエチゼンヤブランドだ。
 君のおかげで仲直りが出来た。これはそのお礼。
 お礼をもらうようなことは何もしてない、と一旦お断りをされたけれど、じゃあお礼でなくてもいいから、一緒に食べよう。と言うと、素直に受け取ってもらえた。
「あとは白あんとか、抹茶のヤツとか、いろいろあるみたい。今度持ってくるよ。」
 小さくちぎって、すぐ飲み込めるようにしていたのに、そんな暇も惜しいくらい、オレは大きく説明していた。
 だけど、黒い子は答えない。
 ちょっとは仲良くなってきたと思ったけど、これは無視されているのとはちょっと違うようで、なんだろうとオレは顔をのぞき込む。

「……あっ! 怪我、どうしたの!」
 顔とか腕とか、少しばかりすすけているな、とは思っていたものの、よくよく見れば、薄むらさきに腫れていたり、くすんだ黄緑色っぽくなっていたり、あちらこちらに痣やすり傷がたくさんある。
「どうもしない。」
 そのきっぱりとした言い方は、これ以上聞かれたくないとシャッターを下ろしてしまったようで、だけどオレとしては、あおボンとのこともあって、心配しない訳がなかった。
「銅でも銀でもいいけれど。手当てはしなくちゃ。」
 オレが城へ戻ろうとすると、手首をがっしり掴まれた。
 ちょうど、初めて会った時と反対だ。
「誰も呼ぶな。」
 口調こそ命令みたいだったけれど、お願いのような切羽詰まった感じもした。「知られたくないんだ。」
 オレは大きく頷く。「呼ばないよ。」

 ここはオレとこの子だけの場所だ。
 いつも誰かしら通っているけど、この時間だけは、オレとこの子のものだ。
 そこに別の誰かが来たら、なんだかガラスのように割れてしまう気がした。

「でも、痛くないの?」
「これから、もっと痛いことがある。」
「えっ。」
 オレは息が詰まる。
 前に、何かの拍子で、うっかり昔の『ごうもん』っていう本を開いてしまったことがあるけれど……。
 あるいはあれだ。
「まぞ、ってやつ?」「ちがう。」
 すぐに否定された。
「俺は下手くそなんだ。何をするにも。」
 なんだかあきらめてしまったような、投げやりな言い方だった。

「オレにはそうは見えないけれど。」
「ひとは見かけだけじゃわからないからな。」
 そう言って、オレの方をちらりと見やる。
 た、確かに。
「だけどさ。」
 どきりとしたけれど、気を取り直して、オレは続ける。
「ヒーローとかは敵を簡単にやっつけちゃって、かっこいいじゃない。だけどさ、ボロボロになっても、諦めないで、頑張ってる、って、同じくらい、すごいことだと思う。だからね、君はすごい。角ばった文字を見るだけで、本を投げ出しちゃうオレなんかより、ずうっと。」
 最後のオレのくだりは恥ずかしいだけだったかもしれないけど、とりあえず伝えたいことは詰め込んで、うん。と、我ながら鼻息荒く力説をかました。
 そんな両こぶしをぎゅっと握ったままのオレを、黒い子は、横目で見たままぼそっとつぶやく。
「格好悪いとこを見せないのがヒーローじゃないのか。」
「うっ。」
 それも、確かに、だ。
「あのね、君がヒーローじゃないとかそういうんじゃなくて。誰もみんな、最初から、頭のいい人とかすごい力を持ってるってなかなかいないから、きっとヒーローにもそういう苦労の時代があったんじゃないかって……。ああもう。」
 オレは何かを言うのが下手くそだ。頭の中でこんがらがって、上手く口から滑り落ちやしない。
「下手くそだ、って思って、頑張れるって、すごいと思うの! そういうこと!」
 しまいには、オレが何故か怒っている風になってしまった。
 黒い子は黙って聞いてくれてはいたけど、オレが最後を締めくくると、何か言いたげに口を開いた。

「あ、違うの、違うの! 怒っているんじゃなくて……。」
 けど、オレの言い訳も途中で止まった。
 その黒い子の口から、小さく「ありがとう。」と聞こえたからだった。

***

 又の日は、『しのつくあめ』がやってきた。

 窓の外は風邪をひいたように青白い。ひっきりなしに雨の槍ががんがん揺らしている。
 さすがに今日は、守備隊も訓練はやっていない。
 お城の中では動いているんだろうけど、せせこましいし、行ったって邪魔になるだけだ。

 時計を見ると、ちょうどいつもの時間だった。今日もいるんだろうか。
 でも外は、ざあざあの雨だ。壁に守られてないあの廊下は、通り過ぎるだけでずぶ濡れになってしまう。お城のどっかにはいるんだろうけど、あそこには、とてもじゃないけど寄り付けないだろう。

 そういや、なんでいつもあそこにいるだろう。結局名前だってわからないままだ。今度会ったら聞いてみよう。

***

 明くる日。別れは突然やってくる。

 雨があがった。水たまりに映る空は、土砂降りが嘘だったみたいにすがすがしく青い。
 言いたいことがたくさんある。聞きたいことがたくさんある。
 だからオレは、いつもの場所、いつもよりちょっとだけ早い時間に、待っていることにした。

 君の名前は? ──黒いから、多分、くろボンとかだろうな。
 いくつ? ──オレと同じくらいかな。
 守備隊、好きなんだ。──きっと、そうなんだろうな。空を見る時、冥王星を探して寂しそうな目をするけど、同時に、まっすぐとした強さ、きらきらとした輝きも感じた。
 いいよね、守備隊。オレも、ボンバーファイターに乗ってみたい。だけど、王子は入れないんだって。ちえっ。
 ああそういや、オレが王子だって言ってないや。……言わない方がいいかな。あまりあちこち、城の中で走り回ってはいけません、って老師に言われてるのに、バレたらたまらないもん。

 そんなことを頭の中でやりとりしている間に、彼はやってきた。
 ……気がつくのが遅れたのは、足音が違ったからだ。
 かつんかつんとお高く澄ました足音が響いて、まずい、兵士さんに見つかった、と思って、逃げようと身構えたら、あの黒い子だったんだもの。
 それに、雰囲気というものが違った。
 最初会った時には、空気が固まってのしかかってくるような、重苦しい感じがした。
 今日は、それよりもひどい。息をする前から、体ごと潰されそう。ぴりぴりとした、静電気のようなむずかゆい感じ。身動きすらゆるされない、そんな感じ。
 オレがたじろいでいるのを見て、彼が言ったのはこうだった。

「昨日は、来なかったんだな。」
 責める口調ではなかった。低く、固く、落ちるような重み。
 だけど、視線にグサッと体を刺すような鋭さがある。
「だって、約束なんかしてないじゃない。」
 オレはそれだけ言い返すのに精いっぱいだった。
 こういう言い方でなければ、とてもじゃないけど口なんて開けなかった。
 彼はしばらく黙って、オレをその鋭い目のまま見て、ふっとその視線が柔らかくなった──そう思った時、「そうだったな。」と独り言のようにつぶやく。

「……もしかして、昨日、ずっと待ってたの?」
 恐る恐る、聞いてみる。
「いや、いい。」
 彼は頭を振る。
 さっきの「そうだったな。」といい、今の「いや。」といい、言葉はすごく優しいのに、そこになにか寂しさが混じっている気がして、オレはもしかして、大変なことをしてしまったんじゃないか、という焦りの気持ちが体を上ってくる。

 おそらく、彼は昨日もいたのだ。オレを待って。
 だけど、雨だったじゃないか。人が立っていられるかわからないくらいの。
 そんな中で、ついこないだ会ったばかりのオレを、待っている理由なんてどこにあるんだ?

「どうして。」そんな言葉を、無意識に発していたかもしれない。
 彼は、じっくりと考えるように、しかししっかりと言葉を紡ぐ。
「昨日が最後だった。」
「最後?」
 最後、って言ったって、君は今日、ここにいるじゃないか。
「そんな時に、雨に降られるなんて。やっぱり俺は何をするにも下手な訳だ……。」
 独り言のように力が無かった。
 どういうことだよ、オレはきっと、顔にも声にも出していたと思う。

 彼はしばらく黙って、何か言いたいのをじっと我慢している気がして、だけどオレが催促するように一歩前に出たから、ちょっと口を開いて、斜め後ろに視線を逸らして、もぞもぞと何かを取り出した。
 それは。
「──スカーフ?」
 守備隊の隊員のしるし、赤いスカーフ。
 彼が手の平にのせて見せてくれたのは、太陽の光を滑らかに反射する、紛れもなく赤いスカーフだった。

「すっげー!」
 オレは先ほどの暗い空気などほっぽりだして、勢いよくそのスカーフにかじりつく。
「そうか、試験で来てたのか! そうか。守備隊に入れたんだね! 良かった。やったじゃない!」
 これで一つ謎が解けた。
 彼がここでうろうろしてたのは、守備隊の入隊試験に来てたからなのか。
 スカーフの布地はきめ細やかで、石像みたいなつるつるの肌、飛行機雲のようになびく長さ、空の青に鮮やかな赤。まさに憧れのかたまりだった。
 けれど、彼はあまり嬉しそうではない。
 弾むのはオレの声ばかりで、彼の声は、逆に試験に落ちてしまったかのように、ずっと沈んでいる。
「なんだ、これなら毎日会えるじゃない。そうそう、もうバレてるかな。言ってなかったけど──。」
「これでお別れです。」
 オレの言葉は遮られた。
「おわか、れ?」
 意味が飲み込めない。
「今日私は守備隊員として内定を頂きました。正式な辞令は来月初めになりますが、これからは、一守備隊員としての振る舞いが求められます。ですから、昨日で最後だったんです。」
 どういう、ことだろう。

 別にどっか、遠い所へ行くわけじゃないだろう? だったら毎日会えるだろう? 何がお別れなんだよ。
 ぽんぽん言いたいことが飛び出してくるけれど、彼は頑として機械のような反応を返すだけで、オレは段々と腹が立ってきた。
「第一、なんだよ。今更そのよそよそいい喋り方。全然、似合わない!」
 全てぶちまけた時には、オレの息はあがっていた。
 それでも、オレが精いっぱいに説得すれば、彼もわかってくれると思ってた。なのに。

「お前は、なにもわかっちゃいない。」

 彼の言葉には、ぴしゃりと扉が閉じられていた。
 鍵が厳重に掛けられて、オレが足を入れる隙間もないくらいに。
 スカーフを見せた時から、扉がひっくり返って、別の部屋に迷い込んだみたいだ。

 きっと、彼は、オレがどこの誰かも知っていた。
 だけど名前を言わない間、正体を明かさない間は、ずっとあのままでいられたから、何も言わなかったんだ。
「また、昨日までのようにお会いできることはないでしょう。」
 聞きたくない!
 オレは耳を塞ぐけれど、とても澄んだ彼の声は、手の平を突き抜けてやってくる。
 心のどこかで、まだ聞いていたいんだ。
「今までありがとうございました。この数日間、知り合いもいない場所で話せたことは、楽しかったですよ。」

 そしてこう締めくくった。
「これからよろしくお願い致します、しろボン王子」