「しろボン」
くろボンが、オレの肩をぐっと掴む。そのまま真剣な眼差しで見つめられる。くろボンの目に、オレの姿が映るのがわかった。
「どうか、どこにも行かないでくれ」
オレは何も言えなくなる。くろボンの、低い声が、いつまでも頭に反響する。
行かないでくれ。くれ。くれくれくれくれれれ──。
けたたましい音が響いて目が覚めた。
「はっ!」
ジリリリリ、とベルが鳴っている。目覚まし! あわてて布団から飛び起きる。そのまま辺りをまさぐったが、よく考えたら、目覚まし時計なんてないことに気がついた。いつの間にか音は止んでいる。
なあんだ、夢か。
そうとわかると、急に寒気を感じて、身震いした。季節は真冬、大寒だか羊羹だかの、いつ雪が降ってもおかしくない季節。窓から覗く空は冬日和、カラッと透き通ってどこまでも広がっている。陽はさんさんと降り注いでいるのに、眠れる部屋は冷え切っていた。思わず、自分の腕で自分を抱く。寒さが突き刺さる。
時計を仰ぎ見た。朝の7時過ぎ。もう起きてもいい時間だが、いかんせん寒い。もうちょっと、いやいつまでも寝ていたい。お布団と結婚したい。
けれど、いつまでも寝ていると、お迎えがくる。朝ごはんもさげられてしまう。
……あと30分だけ。
そう決めて、オレは布団から這い出てヒーターをつけた。出たのはほんの一瞬だったのに、足が氷漬けになったようにひんやりする。部屋があったかくなっていくのを感じながら、お布団に深く潜った。ふかふかの肌触り。ああ、しあわせ。
そのままうつらうつらして、意識がすうっと吸い込まれそうになったときだった。
ジリリリリ! 再びベルが鳴る。
はっと飛び起きた。なんなの、もう! もうちょっとで寝られるとこだったのに!
目覚ましなんてないはずだ。なのになんで音が鳴るの?
辺りをきょろきょろして出所を探ると、どうやら、廊下の方から聞こえてくるらしかった。
オレはそろそろとドアを開ける。廊下の奥の方から、いくつかの人影が、こちらへ駆けてくるのが見えた。
くろボン、とその他兵士たち。
うわあ。そういや夢見たんだよなあ。ちょっと顔を合わせづらい。
何があったの、と声に出すだけなのに、ためらわれて、飲み込んだかわりに、小さく手を挙げた。
「くろ……」
『城内、全兵士に伝達。しろボン王子を探索せよ。至急その身柄を確保せよ。繰り返す。城内、全兵士……』
スピーカーから、放送が鳴り響いた。オレも、兵士たちも、天井を見あげて、その内容を聞く。そして、また、顔を戻す。
「あ」「あ」
くろボンと目が合った。
「確保!!!」
オレを指さした。弾かれるように、駆け出すくろボン、兵士たち、逃げるオレ。急いでドアを閉めて、鍵をかける。ガンガン向こうから叩かれている。「王子! 開けてください!」
開けるもんか!
オレが何したっていうんだよ。ちょっと二度寝しようとしただけじゃないか。それでこんなに大包囲網がひかれるほど?
今日の朝ごはんが兵士たちも楽しみにしている超高級ビーフカレーだったりしたの!?
拳の勢いだけでドアが破られそうだ。オレは怖くなって、椅子やら脇机やらを扉の前に動かした。バリケードだ。それでも乱暴なノックは止みそうにない。
いつまでもここにいては危険だ。追われている理由はわからないけれど、早くここから出た方がいい。
改めて自分の部屋を見渡した。ベッドに面して、バルコニー付きの大きな窓と、腰高窓がある。出入口は、今バリケードを張った後ろ手のドアしかない。そのドアがこんな有り様だと、もう窓から出るしかない。
ベッドに乗り上げて、まず腰高窓をのぞく。窓を開けると、冷蔵庫のような風が、全身に刺さる。うう、さむい。窓を閉め切って、ココアでも飲みたい。
ここは地上4階。窓に体を突っ込んで、下をのぞきこんだが、地面が果てしなく遠く見える。外に高い木はない。うん、落ちたら全身骨折間違いなし。オレは頭を振った。こっちはムリだ。
腰高窓を閉めて、膝立ちのまま、ずりずりとバルコニーの方をのぞいた。
目の前には中庭、手前の塔の頭、その向こうに城下町、さらに山々が広がっていた。また寒さを覚悟で窓を開ける。うううう。ホットミルクが恋しい。
下をのぞき込むと、またバルコニーがあった。確か、使われていない客間だったはず。……あそこなら!
オレは柵を乗り越えようとした。あ、ちょっと高いかも。ただ下のバルコニーに乗り移るだけなのに、ちょっと、いや結構緊張する。高いとこ、別に平気なはずなのに。ロープでもあればいいんだけど。
髪の毛があったらなあ、昔話のお姫様みたいに、するするするーって降りられるのに。なんだっけ、プレッツェルボンだっけ。
しかし今、ロープを取りに出ていけないし、オレの頭はつんつるてん。何か代わりになるもの……そうだ!
オレはベッドのシーツをひっぺがした。毎日干してもらってるけど、ごめん、今日は汚しちゃうね。
ふと気がつくと、ドアの向こうは静かになっていた。あれ、あきらめたのかな。じゃあ、出なくてもいい……?
オレがバリケードの後ろで、ドアの向こうを伺う。音は止んだが、人のいる気配はする。油断させて捕まえる作戦なのか。もしかして、御柱祭の木落としのように、ぶっとい丸太でも調達してきてるのか。
ジリリリリ。三度、ベルが鳴る。
『しろボン王子、早く出てきてください』
くろボンの声だ!
危ない、オレをおびき寄せる作戦か! その手には乗らない。
オレはバルコニーまで駆けていき、手にしたシーツをきつく柵に結びつけた。ピンと張らせると、大丈夫そう、オレの体重くらいは支えられそう。そのまま身を乗り上げ、片手でシーツを握り、もう片手で柵を握る。
寒さで体がこわばる。体重を預けると、やっぱりちょっと怖い。ええい、男は度胸!
柵を掴んでいた手を放し、両の手でシーツを握る。ぎし、と布のきしむ感じ。早く降りなきゃ。
うんと体を伸ばす。腕がぷるぷるする。足を出来るだけ近づけて……。
下の部屋をのぞきこむと、人影がこちらに来るのが見えた。
「王子」「くろボン!」
なんでここに、と思ったとき、思わず手が滑った。やばい、落ちる──!!
瞬間、くろボンが駆け出して、両手を広げ、ナイスキャッチ。
……お姫様抱っこ、というやつだ。オレ王子様なのに。
落ちそうになった驚きと、くろボンがいた驚きで、言葉が出てこなかった。しかも、こんな格好で、くろボンの顔が近くて、別の意味でもドキドキしている。くろボンの方も何も言わない。お互い無言。
抱きかかえられたまま、そろっとくろボンの顔を見やる。くろボンもこちらを見る。オレが冷や汗だらだらなのに対し、くろボンは平然としている。
「くろボン、なんで」
「窓を開ける音がしたので」
そういうことか。オレの行動は読まれていたらしい。
そのまま、何も言わずに降ろされた。
そういえば、なんでこんなことになったんだっけ?
……そっか、オレ追われてるんだった。
脱兎のごとく逃げ出した。「待て!」後ろでくろボンの声もする。構っているヒマなんてない。
なに敵の親分に捕まってのんびりしてるんだよ! オレのバカ! そんなことしてる場合じゃないってのに!
廊下を一目散に走る。ダカダカと後ろで足音がする。ちょっと傍目で後ろを見ると、すぐそこにくろボンがいた。馬ロンのように早い。ヤバい、捕まる!
「何故逃げる!」
「なんで追いかけてくるんだよ!」
くろボンの伸ばした手をひょいとかがんでかわし、そのまま急ブレーキ。道を折れて、脇へ行く。足が早いくろボンは、反動で奥まで滑っていく。やーいやーい!
オレが入ったのはトイレだった。もちろんしっかりと鍵を掛ける。はあ、と大きな息を吐いて人心地。ここが見つかるのも時間の問題だ。ゆっくりはしていられない。
トイレからの脱出。それは人類に課せられた普遍的な難題。
オレもゲームでやったことがある。あれどうやって外に出たんだっけ。確か、水をためて、あ、その前にトイレ詰まらせないとダメか。詰まらせるもの……。
客間に近いトイレとあってか、なかなかきれいな造りだった。両腕を伸ばしても大丈夫なくらい広いし、お花のいい香りがする。なんと便器のフタも勝手に開く。おしりに優しいウォッシュレット付き。マットもタオルもふわふわしてて高級そう。これを詰めるのは、ちょっと罪悪感がわく。トイレットペーパーは、と思って触ってみると、こっちもふわふわ。これをいっぱい使うのももったないなあ。
そういやこれ、レバーないんじゃない? 自動で流れるやつ? スイッチあったよな。オレの階のトイレと一緒かな。
適当に、『流す』のボタンを連打する。
「王子!」
ヤバっ! くろボンの声に、体がびくっとする。
あわててボタンをさらに連打。トイレの水があふれてくる。
「ちべたっ」
足にかかった。ちょっとばっちぃ。ってか、トイレの水で泳いで外に出るの、けっこうきたないよね。あ、でも、下にすき間がある。じゃあここから水出てくね。え、そしたらどうやってオレはここから出るの?
「なっ」
水がくろボンの方にも流れていったのか、びしゃっという音がする。
「一体何してるんだ!」
くろボンが、激しくドアを叩く。怖い、ヤバい。オレは無意識にボタンを連打していた。ヘルカイザーよろしく5連打、名人ボンばりの16連射。
はっと気がついたとき、トイレが地鳴りのような音をあげていた。がくがくと、ロデオのように便器が暴れる。なにこの世紀末。
段々と、おもちのようにふくらんでいき──。
オレは鍵を開けた。
「王子、お前やっと出て……」
「くろボンも逃げて!」
そのまますたこらさっさ、廊下へ逃げ出す。
「は?」
後ろでくろボンの声と、水が爆ぜる音が聞こえた。
「風邪ひいたらごめーん!!」
くろボンには悪いけど、捕まりたくはない。今の間に、なんとかして外に出ねば……! 振り返らず、全速力で駆け抜ける。
本日何度目かのベルの音が響き渡った。
『総員、しろボン王子を確保』
ひどくどすのきいた声だった。くろボンだ。
ひいいいい。間違いなくキレている。声だけで震えあがりそう。
階段を下り、折り返し、会議室の並びから裏手の方へ。走っているので、ちょっとすっ転びかけて、あわてて体勢を立ち直らせる。はあー、息も切れてきた。ちょっと咳き込む。
なんでオレ、こんな大運動会してるんだろ。おかげで、真冬なのに真夏みたいだ。すっごいあっつい。
水、水をくれ……。
よろよろと、足を踏み入れたのは厨房だった。そういや朝ごはん食べてなかった。それなのにこの運動量、疲れるわけだ。
樽に壺にこんもりとした食器。厨房では、侍女ボンたちが、お皿を洗っていた。そのうち一人がこちらに気がつき、顔を向ける。
「あら王子、どうされたんです、こんなところで」
「オレにもわかんなぁい……」
どうしてオレ追われてるんだろ。
気が抜けて、へろへろと壁に寄りかかる。
「起きてこられないので、お食事には布をかぶせておきましたよ。陛下も残念がっておられました」
ありがとう、そう答えるのがやっとだ。父上には申し訳ない。
そうだ、父上はどこにいるんだろ。父上に言って、この追いかけっこを止めてもらわねば。
もしかして、すでにもう捕まって……?
バタバタバタ……、と遠くから、足音がしてきた。はっ! こんなことしている場合じゃない!
きょろきょろ見まわすと、空き箱が目に入った。今朝のごはんの材料が入っていたのだろう。オレ一人、まるまる隠れられそうだ。
「これ借りるね!」
「え、あの王子?」
オレは空き箱を手に取ると、ひっくり返して、そのままスポッと被って、しゃがんだ。変装完了。どっからどう見ても、オレはダンボールだ。
確か、ダンボールに隠れるスパイゲームがあった気がする。なんだっけ、ペダルギアソケットだっけ。知らないけど。
当然ながら、中は真っ暗。すき間からちょっと光がのぞくけれど、微々たるものだ。うう、前が見えない。狭いし。
箱の中にいるからか、音がくぐもって聞こえた。いくつかの足音が、ぴたりと止まる。ヤバい、ここに来た。
「失礼、王子を見かけませんでしたか?」
兵士が侍女ボンに尋ねる声がする。
「王子? 王子ねえ……」
侍女ボンがこちらを見ているような気配を感じる。ダメだ! 言っちゃダメだ!
オレはずりずりと移動を開始した。家探しされたら、いずれこの箱も暴かれてしまう。蝸牛の歩みで、ゆっくり、ゆっくり。歩きづらくて、自然と遅くなっているだけなんだけど。
そのまま勝手口の方へ。よかった、兵士たちは気づいてないみたいだ。
と、突然、勝手口のドアが開いた。
ヒッ! ……いいや、大丈夫大丈夫、オレはダンボールなんだから……。
心を落ち着かせるために、すーはーすーはー、大きく深呼吸。
ダンボールが持ち上げられた。
!
「あ」
くろボンだ。
「何してる」
感情のこもってなさそうな、冷たい視線で射られる。
「待て!」
木箱を投げつけた。くろボンが避けるすきに、ドアから外に出る。
よし、ここまでくればこっちのもの! あとは門まで一直線!
裏手をまわり、正面の庭まで出た。中央に大きな噴水、きれいに刈り込まれた芝、手入れされた木々、色とりどりの花々。いつもなら街のみんなの憩いの場。しかし、今は兵士たちが、規則正しく列を作って、待ち構えている。
(父上!)
心の中で叫んだ。兵士たちに取り囲まれて、父上もいる!
くそお、やっぱり! オレと父上を捕まえて、どうにかするつもりなんだ!
「待て待て待て待てー!!」
オレは追われている立場だというのに、わき目も振らず突っ込んだ。一同、オレを見て、目を大きく見開く。しろボン王子のお通りだい!
兵士たちが構える。オレは走りながら、おなかに力を入れる。ぐぐぅー、と間の抜けた音がする。あ、ヤバい、ガス欠。
おなかの虫の声を聞いたら、急に力が入らなくなってきた。兵士たちの手前50メートルくらいで、ふらふら、ばたんと倒れ伏す。
おなかすいた……。
ざく、と芝の踏み鳴らす音が聞こえた。わずかに顔をあげると、やっぱりくろボンだった。オレを真顔のまま見下ろしている。
涙が出てくる。おなかすいた。どうしてこんなことに。おなかすいた。
ふと、くろボンがぷいと顔を背けて、後ろに問いかけた。
「セレス、タイムは」
「35分41秒です」
? なんのタイムだろう?
きょとんとしたオレに、王子、起きてくださいと声をかけてくる。オレが頭を振ると、くろボンはかがんで、目線を合わせてきた。オレの手首に指を充てて、脈を図るような仕草をする。多少あがってはいるようですが、正常の範囲内ですね、と頷いた後、言葉をつづけた。
「寝坊はする。部屋に立てこもる。窓から飛び降りようとする。勝手に逃げる。トイレは壊す。王子だというのに、どれだけ前科を積み重ねれば気が済むのですか。これ以上、訓練の妨げになるようなことはしないでください」
「くんれん……?」
ああ、なんとなく思い出した。
「昨日避難訓練をすると申し上げましたでしょう。まるで今まで忘れていたかのようですね」
くろボンは顔をしかめて、じっとこちらをねめつけた。蛇ロンににらまれたカエルロン。鋭い視線で石になっちゃいそう。
その通り。忘れていたんだから何も言えない。
そっかー、だからあんなサイレンなったんだー。
「あんなに追いかけなくったっていいじゃん……」
オレはがくっとうなだれた。ここまで必死に逃げてきたのはなんだったのか。あとおなかすいた。
「これが訓練でなかったら、貴方は火にまかれて煙を吸い込んで喉が焼かれて息ができなくなって、意識がもうろうとして、しまいには黒焦げになって骨しか残らなくなるのですが、それでもよかったら」
「それはやだ」
でしょう、とくろボンが相づちを打つ。
はあー……っと、めちゃくちゃ深いため息が出た。なんだってこんな朝っぱらから、と思ったけど、考えたら、厨房で侍女ボンがお皿洗ってたもんな。寝すぎたのかな。もう目はすっかり覚めたけど。
「まあまあ」
上から父上の声がした。
「訓練も終わったことだし。しろボンや、城へ戻ろうか」
取りなすように、父上がオレとくろボンの間に立つ。とても成功とは言えませんけどね、とくろボンはつぶやきながらも、さすがに父上の前とあっては、それ以上黙っていた。
オレはふらふらと立ち上がる。ごはん食べなきゃ。もうお昼の方が近そうだけど。メニュー何だったのかな。聞いとけばよかった。
落ち着いてくると、寒風に体が震えた。骨身に染みる、とはこのことだ。早いとこお城に戻ろう。
父上を見ると、うん、と頷いた。なんだかとてもほっとした。
のもつかの間。
またもやベルが鳴った。
「どうした、もう訓練は終わったぞ」
『中央塔で火災発生、これは訓練ではありません、中央塔で火災発生……』
その場にいたオレ、父上、くろボン、セレスパラス他兵士ご一同、みな一斉に固まった。
「総員!」
くろボンは兵士たちの指揮を執る。
「消防班は直ちに現場へ、誘導班は城に残った人間を避難経路へ誘導、輸送班は各倉庫からリストの物資を調達、救護班は風下にスペースの設営、警備班は指定の城門へ、広報班は連携を取り情報の収集」
「はっ!」
隊員たちは敬礼し、直ちに持ち場へ散っていった。あんなに人がいっぱいいたのに、今や、オレと父上とくろボン、あと数人の兵士たちだけだ。「陛下、殿下、こちらへ」と、オレたちを遠くへ案内する。
──ああ。兵士に誘導されながら、オレはふと思い出した。
ヒーターつけっぱなしだったなあ。
出所は案の定オレの部屋だった。隊員たちの迅速な行動のおかげで、ぼやで済んだらしい。
その後、くろボンに肩をゆすられ、「どうか、どこにも行かないでくれ」と、夢のようなことを言われた。
