「くろボン隊長が職を辞するなんて話もあるくらいだし……」
耳に入った瞬間、胸の震えが体にも伝わった。親衛隊の兵士たちが使う大衆食堂。しろボンは王子でありながら当たり前のように通っていた。今日もここで冷やし天ぷらうどんをすすっている最中だった。
『しょくをじする』、というのは難しい言葉だったが、つまり『隊長を辞める』ということなのはわかっていた。以前『食事をする』と勘違いして、お前は何を頓珍漢なことを言っているんだと、呆れられたことがあるからだ。
くろボンが辞める、なんで、どうして……噂の真相が気になって、そろそろと出所を振り向く。ちょうど斜め後ろの席に座っていた、まだ年若そうな兵士二人組だった。彼らはそばをすすっている。合間に時折、身振り手振りを交えてお喋りとしている。本当は声を潜めて話す内容ではないのか、としろボンは他人事ながらハラハラする。
「ああ、最近悩んでいるようには見えるけどな」
「落ち着かない感じだよな、なんだか」
一人の兵士の話すことに、もう一人の兵士が頷く。しろボンは、気が気でなかった。
幸か不幸か、そこで話題は終了し、まもなく食べ終えた後、二人は店を出ていってしまった。結局くろボンは親衛隊を辞めるのか、どうしてそういう話が持ち上がったのか、聞けずじまいで終わった。聞きたかった気もするし、聞かなくて良かった気もする。
そうでなくても、ここのところ、気持ちがそわそわして、落ち着かない。
事の発端は件のくろボンのせいだ。
シチュエーションはこう。他には誰もいない、しろボンとくろボンだけの廊下。話し声や生活音が遠くに聞こえ、まるでここだけ切り離された二人だけの世界。西日が石畳を朱く抒情的に染める。お互い別方向からやってきて、視線がふと合い、真ん中で足を止める。
夕焼けに照らされたくろボンはいつも以上に精悍に見えた。眩しさからか目を細める表情が整った顔立ちを更に際立たせた。唾を飲み込む音が自分でも聞こえて、ずっと目を合わせていると、それこそ石になってしまったみたいに、息をするのも忘れてしまったほどだ。
そのまま何も言えず固まっていると、くろボンが小さく口を開いた。
「大事な話がある」と。
そう言われれば想像されることは一つしかなかった。
いやまさか。いやだって、くろボンが、ねえ。
胸の内でいくつもの言葉が渦に巻かれる。
な、なに? 必死に平静を装って、しかし内心震えながら、くろボンの次の言葉を待った。
「……お前が好」
ここまでは、ほぼ想像通りだった。
が、この時、カラスロンの大群が「ガーァ」と口々に叫びながら窓の向こうを通り過ぎ、遠くの食堂で「ガチャガチャガチャ」という雪崩れる音と「キャー!!」という悲鳴と「ガチャーン!」と皿の割れる音がのべつまくなく展開され、それを聞きつけた兵士たちが「どうした?」「どうした!」と一斉に脇を駆け抜けていき、しろボンは夢想から一気に現実に引き戻された。
はっと顔をくろボンに戻すと、彼はすでに言い終わった後のようで、こちらの返答を待っている。
……どうしよう。
くろボンが言ったことは何だったのか、まったく聞き取れなかったのである。
おそらく困惑がそのまま顔に出ていたのだろう、くろボンも顔をしかめると、やや間があった後、「いや、この話は後でする」とさっさと踵を返してしまった。
一人取り残されたしろボンは、くろボンの台詞をずっと頭の中で繰り返していた。
それがこの間の事件だ。
それ以来、ずっとしろボンはくろボンの言葉の続きを考えていた。
「お前が好」ときたら、後は「き」しかないだろう。お前が好き。あるいは「だ」が続くかもしれない。お前が好きだ。
つまり、くろボンがしろボンを好いている。恋情的な意味で。
考え付いて、しろボンは頭を抱え、激しく机に打ち付けた。
いやいやいや! そんな筈はない!
どう考えたってその可能性はゼロに近い。
誰にだって事務的でそっけない。愛想なんて彼の辞書には存在しない。いつも眉と眉の間にしわを寄せて、腕を組んで、威圧感たっぷりに佇んでいる。人にも己にも厳しい人柄。馴れ合いなんてない。誰かと談笑してようものなら、次の日は竹槍が降ってくる異常気象はまず間違いない。
しろボンへは殊更当たりが強い気がした。何かにつけて厳しく接してくる。なのに、何かにつけて世話を焼いてくれたりもする。いうなれば、自分が川でおぼれているのに何もしてくれず、滝つぼ辺りまで来たところで、ようやく腕をひっつかんで引き上げてくれるような、そういう優しさ。
もしやそれが恋というのだろうか? ……それはない。
愛には色んな形がある、ということは知っている。ロボットと心を通わす物語もあれば、恋した相手が魔女だとか宇宙人だとかそういう話もある。同性だからといって可能性がないとは言えないし、区別するつもりもない。ただ、相手から色恋沙汰が想像できなかった。
しばらくはふとした折にあの時の情景が浮かび、ベッドに転がりまわったり、独り言が多くなったり、ずっと心を乱されていた。
くろボンに懸想されている、それはどういうことなのか、自分はどうするのか? まず同性同士の恋人付き合いも少数派で結婚は例がない。王子と隊長という立場の差もある。それがわからないくろボンでもないだろうに、それを敢えて伝えてきた意味。自分はその期待を受け止められるだろうか、色々考えて──。
意識しだしたら、顔を合わせるのにも気後れしてしまって、声を掛けるのはもちろん、遠くに姿を認めただけで物陰に隠れてしまうようになってしまった。しばらくまともな会話も交わしていない。くろボンを避けるようになっていった。
このままずっと悶々として過ごすのか、いや、どこかで決着をつけなくてはならない──そう考えていた矢先だった。くろボンが辞める、その噂を聞いたのは。
もしや、あの時言いたかったのは……!
しろボンの脳裏に、嫌な想像が閃いた。もしかしてくろボンは、あの時、親衛隊を去ると言うつもりだったのではないかと。
ではあの台詞はどう説明するんだ? 「おまえがす」なんて枕詞はあっただろうか?
あるいは、こうかもしれない。「お前が好きだから、辞めることにした」。
いささか突飛な考えか? だが辻褄は合う。仮にくろボンがしろボンを思慕しているとしたら、壁があまりに多すぎる。障害が多いほど恋は燃える、というけれど、彼の性格からして、静かに身を引く方がしっくりくる。
──確かめなくてはならない。
しろボンは静かに店を出た。城への道をゆっくりと歩き出す。
本当だったらどうしようか。本人を前にして、何か言えるだろうか。
一歩一歩城へ近づくたびに、迷いがもやのように覆って、決意がしぼんでいくのがわかった。
***
そのまま変わりない数日が過ぎた。
どうしてもしろボンはくろボンから逃げてしまう。くろボンと接する機会は何度となくあるのだが、しろボンは無意識の内に体をそっぽに向けてしまうのだ。
きっと、あの時の続きを言うつもりなのだろう。それを聞くのが、怖い。
その応酬に終止符を打ったのは、くろボンだった。
「いつまで逃げるつもりだ」
不機嫌を露わにした声。震え上がってしまったのは、くろボンが怖かったのではない。とうとう来るべき時が来たのだと、予感したからだ。
「お前が俺を嫌っているのはよくわかったが……」
その言葉はしろボンの胸を鋭く刺した。あまりに鋭利だったので、「違う、そうじゃない」と否定をすることも出来なかった。声にならなかった。
何も言うことが出来ずにもごもごしていると、くろボンは困ったように視線を外して小さく息を吐き、呟いた。
「今日しかないんだ」
今日しかない。その言葉の意味を理解すべく、頭の中で反響して繰り返される。
明日にもくろボンは親衛隊を辞めてしまうのか。あるいは、今日は大安吉日か何かで、プロポーズするにはこの日が良いと占いにでも出たのか。
廊下の放たれた窓から、風が二人の間に割り込んでくる。風が去った後、くろボンが決意したように視線を上げて、身構えるしろボンの腕を無理に引っ張り、庭へ出ていった。「え、ちょっと」と制止を求めるが、聞き入れてもらえない。聞こえていないのかもしれない。足取りがいつになく力強く、怒っているようにも感じられた。
***
裏庭の隅っこで周りに誰もいないかぐるりと確認した後、更に用心深く大樹の影に隠れて、くろボンはしろボンを木の幹に己の手で縫い付けた。いわゆる、壁ドンというやつだ。
顔が近い。意識すると、くろボンの息遣いまでも聞こえてきて、気恥ずかしさで居たたまれなくなる。頭の向きを変えることも出来ない。隙間もない。なるべく顔を見ないよう、表情で察してしまわないよう、目を逸らすのが精いっぱいの抵抗だ。
「なんの、つもり?」
くろボンがふっと腕を緩めた。さすがにやりすぎたと思ったのだろうか。ばつの悪そうな雰囲気が感じられる。しろボンが止まってしまった息を大きく吸い込むのと、くろボンが間を切り替えるように息を吸い込んだのがほぼ同じ時だった。
「すまん。怖がらせるつもりはなかったんだが……」
「誰だってびっくりするよ」
「そもそもお前が逃げなければ話は早く済んだ」
それを言われると、ぐうの音も出ない。
するとくろボンががさごそと懐から何かを取り出し始めた。ちらと見たところ白い封筒のようだ。それをしろボンに手渡すような素振りを見せる。
「これ……」「待って!」
くろボンが差し出したのを、しろボンが両手で押しとどめる。
「……それは、悪い知らせ? それとも良い知らせ?」
手の隙間から、そろそろとくろボンの様子を伺う。くろボンはしばし逡巡する様子を見せた後、
「お前にとっては、良い知らせだと思うがな」と結論付けた。
「それじゃわかんないって!」
もっとも判断に困る答えだ。もしくろボンが、『しろボンは己を疎ましがっている』、と感じていたら、親衛隊を辞することを、そう評するかもしれない。現に、これまで幾度となく避けてきたのだから。
いや、もし『俺と結婚させてやるからありがたく思え』という考えだったとしたら? 単純に、『これからバラ色の生活が待っている』と言いたいだけだとしたら? それはありえない?
注意深く封筒を見つめると、潔いほど純白の、蔦に花模様の型押しまで施された、傍目にも上等だとわかる代物だった。これはラブレターだろうか。それとも辞表だろうか。判断はつかない。
辞表だったら受け取ってはならない。辞意を受け取ったことになる。ラブレターならどうなのか。受け取れるのか。
そもそも自分はどうしたいんだ? くろボンは一度隊長職を退いている。その時寂しい気持ちは無かった訳ではないけれど、割合平気ではあった。何故今更未練がましく思うのだろうか? わからない。
「……おい、大丈夫か」
返事の出来ぬまま、知らず頭を抱えていたらしい。くろボンが半ば呆れたような目を投げてくる。白い封筒をぷらぷらとさせて、こちらの手を出すのを待っている。
「いや、だって……」
意識が現実に引き戻されたのを確認して、くろボンはしろボンにその封筒を押し付ける。
「待って!」
握らされようとしたところで、しろボンは二度目のタイムを取る。くろボンは目をしばたたかせた。
「なんなんだ、いったい」
「……やっぱり、受け取れない」
しろボンは胸に満たすようにすうっと深く息を吸った。
「それが、良い知らせでも悪い知らせでも、心の準備が出来てない。今のままで十分なのに、それが突然変わっちゃう気がする。だから、受け取れない」
そう言って封筒を押し戻した。くろボンが「そんな大仰な」、と嘆息する。自分だってさんざシチュエーションにこだわってきたくせに!
「あまり人には見られなくなかったんだが……」
くろボンは手に戻された封筒から、何気ない仕草で中身を少し引き出し、端っこをちらりと見せた。
しろボンが今の今まで悩まされたものの正体は、あっけなく身をさらした。それには、
『スイーツビュッフェ・お一人様二時間食べ放題無料』
期限は本日14時まで。
ぽかんと口を開けたまま、瞬きも呼吸も忘れたしろボンが、かいつまんで理解した事情はこうだった。
チケットを頂いたはいいものの、甘いものは嫌いでもなければ好きでもないし、女性客に混じることへの抵抗、自身とスイーツというかけ離れたイメージの問題、どうするか考えあぐね、しろボンに押し付けることを思いついたらしい。
「じゃああの思わせぶりな態度はなんだったのさ!」と憤ると、「思わせぶり?」と反対に聞き返されてしまった。本人に自覚はないようだ。おおよそ、硬派で通っているくろボンが、女性らしいキラキラした『スイ~ツ』なんて単語を、人前で口に出すのは憚られたと推測する。
オレの憂鬱を返せ! 甘いものでも食べなくてはやってられないと、くろボンからチケットを奪い取ろうとしたが、寸前でひょいと躱すように上げられ、しろボンは背伸びしながら小さく跳ねた。
ちなみにペアチケットだったようだ。
